眼と耳で読む師匠シリーズ

【眼と耳で読む】 雲 【師匠シリーズ】

※ウニさんの作品はPixiv及び「怖い話まとめブログ」さまより、
Youtubeの動画は彼岸さんのUPされている136さんの朗読をお借りしています。
耳で捉えた物語を目で文章を追うことで、さらにイメージは大きく膨らんでいくのではないでしょうか。
 
 


 

[h2vr]
「雲」

 

師匠から聞いた話だ。

 
大学二回生の夏だった。
ある時期、加奈子さんという僕のオカルト道の師匠が、空を見上げながらぼんやりとしていることが多くなった。
僕の運転する自転車の後輪に乗り、あっちに行けだのそっちに行けだのと王侯貴族のような振る舞いをしていたかと思うと、ふいに喋らなくなったので、そうっと背後を窺うと、顔を上げて空をじっと見ていた。
「なにか面白いものがありますか」
と訊くと、「……うん」とは答えるが、うわの空というやつだった。
僕も自転車を止め、空を見上げてみたが雲がいくつか浮かんでいるだけで特に何の変哲もない良い天気だった。
その雲のうちの一つがドーナツのように見えたので、ふいに食べたくなり「ミスドに行きませんか」と訊くと、やはり「……うん」とうわの空のままだった。
連れて行くとドーナツを三つ食べたが、やはりどこか様子がおかしかった気がする。
そんなことが続き、何か変だと思いながらも特に気にもしていなかったある日、師匠が「面白い人に会わせてやろう」と言いだした。
この師匠は、妙な人間に知り合いが多く、僕にもその交友関係の全貌は把握しきれていない。大学教授や刑事、資産家など一部にまともな人もいるが、その多くが奇人変人のたぐいだった。もちろん奇人の大学教授や変人の資産家もいたので、ようするに多種多様だったということだ。
その時会わせてもらった人はその中でもトップクラスの人物と言える。何しろ、プライベートで修験者の格好をしているのだ。もちろん修験者ではないのに。
そのうえ頬と顎には何十年ものなのかというほどの髭を生やしたい放題に生やし、日焼けした顔には皺が幾重にも深く刻まれている。
確実にレストランには入れないタイプの人だった。
とにかくその日、僕は師匠に連れられて山に登った。わりと近く、高さもそれなりで頂上まで登ると市内を一望できる山だ。
普通なら市民の絶好のハイキングコースになりそうだが、途中道が険しいところがあり、そのせいかあまり人気がないようだった。
頂上まであと少しというところで師匠はふいに現れた枝道の方へ入った。すぐ脇に『ここから先、私有地』という立て札が朽ち果てた姿を晒している。
私有地と言うからには植林でもしているのかと思えば、杉やヒノキの類はろくに生えておらず、竹や名前も知らない潅木が鬱蒼としているばかりだった。
その道の先に小屋のようなものが見えてきた時には、まさか、と思ったが師匠はその小屋に歩み寄ると「せんせい、いるか」と声を掛けたのだ。
こんなところに住んでいる人がいるのか、と思って唖然とした。生活用品を買おうと思ったら、そのたびにこの山を登り降りするのか?
その生活を思うと、まともな人ではないのは確かだった。もっとも別荘なのかも知れない。こんなボロボロの山小屋を別荘にする人の気も知れないが。
「わたしがきたよ! せんせい」と師匠は大きな声で呼びかけたが返事はない。玄関の扉にはドラム式の鍵が掛かっていた。
師匠は小屋の周囲をぐるぐると回り、中の様子を伺っていたがどうやら留守らしいと判断したのか、もときた道を戻り始めた。下るのかと思ったが、枝道の所まで戻ると、また頂上の方へ登り始める。
そうして少し歩くと、潅木の藪が開けた場所に出た。とても見晴らしが良い。頂上はまだ先だが、十分市内をパノラマで見下ろすことが出来る。
切り立った崖になっている場所の突端に大きな平たい岩があり、その上に薄汚れた白っぽい服を着ている人物が座っているのが見えた。
「せんせい、やっぱりここか」
師匠は親しげに呼びかけながら近づいていく。僕もくっついて行って、間近に見たその人物がくだんの修験者風の老人だった。
あ、別荘じゃなくて、住んでる人だ。
見た瞬間にそう思った。
「なんだ、わた雲か」
老人は落ち窪んだ目でうっそりとこちらを向いた。
鈴懸と呼ばれる上衣、袴に足元は脚絆。これで法螺貝でも持てば完全に山伏なのだが、生憎手に持っているのはコップ酒だった。
「お前は実に可愛げのない弟子だ」
そう言って髭の奥の口をもぐもぐとさせる。
「なにか持って来たか」
「はい」
師匠は僕に向かって顎をしゃくってみせる。慌てて背負っていたリュックサックからさっき買ったばかりのいいちこを取り出す。それもパックの徳用のやつだ。
恐る恐る差し出した僕の手からひったくるようにして奪い取ると、老人はその麦焼酎の蓋を開け、口をつけて飲み始めた。
ストレートか。昼間からなにやってるんだこの人は。
あっけに取られて見ている僕に、老人はじっとりした視線をくれた。
「こいつはなんだ」
「わたしの弟子ですよ。先生の孫弟子です」
「ほう」
老人はいいちこをあおりながら髭に滴る液体を拭きもせず、僕を睨みつける。
「ならば、見せてやらねばならんの」
「是非お願いします」
孫弟子?
思わずうろたえたが、老人は酒臭い息を吐きながらのそりと腰を上げ、いいちこのパックを置いてからこちらを振り向く。
「名前は」
「まだありません。是非付けて下さい」
師匠がそう言うと、「ふむ」と唸って髭をさすりながら、老人は僕に『肋骨』という名前を授けた。
なにがなんだか分からない。
「よし。よおく見ておれ」
老人は平らな岩の上で立ち上がったまま、空の一点を指差した。
雲?
その指の先には一片の小さな雲があった。そして見ている僕らの前で老人は両手を空に突き出した。
そしてなにか目に見えない力でも飛ばそうとするかのように、その手を何度も突き出したり引いたりし始めた。手のひらは開かれ、顔は下からねめつける様に雲を睨んでいる。
ええい。えええい。
髭の下の口から、凄みのある掛け声が響いてくる。
あ、これは。と、僕は思った。どこかで見たことのある光景だ。老人が気だか念力だかを送っている雲が、だんだんと小さくなり始めた。
雲消し名人か。
そんな人をテレビで見たことがある。まさか生で見られるとは。
笑ってはいけないと思いながらも、喉から鼻の奥にかけて自然に空気が噴き出しつつある。
えええええい。
余韻に浸るように両手がぶるぶると震え、その遥か彼方で雲は見事に消えた。
どんな編集をしているのか分からないテレビ番組とは違う。実際に目の前で雲は消えた。笑いは引っ込まなかったが、驚いた気持ちも確かにあった。
「さすがですね、せんせい」
師匠が拍手をする。
さらに岩の上に上がり、老人の横に並ぶと、「わたしもやっていいですか」と言って腕まくりをした。
「じゃ、あれで」
そう言ってさっきと似たような雲を指さした。
老人はその雲と師匠を交互に見ながら、「お前は実に可愛げのない弟子だ」と言った。けれど満足げに頷くと、自分は別の雲を指さし、えええい、と両手を前に突き出した。師匠もその横で、目標に定めた雲に向かって両手を突き出す。
はたから見ていると、一体何の儀式か、と思うような動きを二人とも繰り返している。
表情は真剣なのだが、どこか楽しそうだ。
ええい。
えいやあ。
えええい。
なんの。
おおりゃあ。
ぼけおらあ。
どりゃあ。
ぼけこらあ。
なにがこらあ。
たここらあ。
……
掛け声もだんだんとエキサイトして来る。そのエキサイトぶりに比例して雲は薄くなっていく。そして両者の標的は、五分ほどもすると、完全に空から消えてしまった。
「恐れ入りました」
師匠が頭を下げる。わずかの差だったが、老人の雲の方が先に消えたようだ。
「やるのう、わた雲」
足元に置いてあったいいちこをひとあおりして、老人は僕の方を見た。
「肋骨もやれい」
こうだ。
老人は肩で息をしながら、また次の雲に狙いを定めて両手を空に伸ばした。師匠も楽しそうに空を眺めながら、僕にも「さあ雲を選べ」と言う。
なんだか自分にも出来そうな気がして、輪郭のくっきりしたハンバーグに似た形の雲を選び、「あれでやってみます」と言って念をこめた。
五分後、どれほど念を送っても僕の選んだ雲は小さくなるどころかむしろ大きくなっていた。
老人と師匠の雲はまたキレイさっぱり消えてしまったというのに。
「全然駄目だ」
老人は僕の姿勢を矯正し始める。
足の位置、手の形、そして目つき……
どれだけ教わっても、僕の雲は一向に消えなかった。
師匠が含み笑いをしている。
たっぷり一時間ほどそうして特訓をした後、なんとか一つの雲を消すことに成功した。
変な感動があり、胸が熱くなった。
「ありがとうございました」
「うむ」
老人は仙人のような髭をしごきながらひとしきり頷くと、腰を下ろしていいちこを飲み始める。それから三人で座り込み、山上から見える景色をぼんやりと眺めていた。
見上げれば空には様々な形の雲が浮かんでいる。見下ろせば眼下に市街地の雑多な景観が遠く広がっている。
なんだか妙に穏やかな時間だった。
小一時間、大の大人が一生懸命雲を消して疲れ果てている。お金は掛からないし、誰も傷つけない。そして誰も得をしない。
いつの間にか胡坐をかいたまま老人は居眠りを始めている。この奇人変人の鑑のような人物を横目で見ながら、僕は改めて師匠の交友関係の意味不明さに感慨深い思いを抱いていた。
その師匠が欠伸をしながら立ち上がった。少し遅れて船を漕いでいた老人が顔を上げる。
「せんせい、帰るよ」
「そうかね」
老人は少し残念そうに言った。そして肋骨をちゃんと教えてやれと注文をつけた。師匠は分かりましたと頷く。
「あ、それから」と師匠が姿勢を正して老人の顔を見つめる。そうしてしばらく何も言い出さなかった。
「なんだ」
痺れを切らして老人の方から訊ねる。
師匠はようやく口を開いた。
「せんせいは、この街で誰よりもたくさん空を見てますよね」
その問い掛けに、当然だと言わんばかりに老人は無言で大きく頷く。
「だったら」
師匠は軽い口調で続けた。いや、軽い口調を装って、そして装い切れずにいた。僕は何故かそれが分かり、前触れもなくゾクリと肌が粟立った。
「だったら、最近、空がどこかおかしいと思いませんか」
老人の目つきが変わった。眉間に皺が寄り、眼の奥に火が灯ったかのようだった。
「言うな、わた雲」
「例えば、あの」
「言うな」
鋭い口調で老人は言い捨てた。空の向こうを指差そうとしていた手を、師匠は静かに下ろす。
老人の身体が微かに震えている。アルコールのためではない。その身体から漏れ出る怯えの色を僕は確かに感じていた。
「また来ます」
師匠はゆっくりとそう言うと、僕に「帰ろう」と合図をした。しかし僕は得体の知れない畏怖に身体が貫かれている。
下ろしたばかりの師匠の指先が残像となって、脳裏に蘇る。その先には空にゆったりと浮かぶ、大きな雲があった。
ドーナツの形に似ていた。

帰り道、師匠は種明かしをしてくれた。雲消しの種だ。
「消せるのは積雲なんだよ」
それも発達し切れなくて消滅しかかってるやつを選ぶんだ、と言う。
説明してくれたことによると、積雲というやつはもっともポピュラーな雲で、比較的低層に出来るのだそうだ。
大気中の水蒸気が凝結し、雲になる高度を凝結高度というらしいが、上昇気流により、その高度を越えた雲粒たちが順に目視できる雲になっていく。だから何もない空に急に雲が発生したように見える。
さらに上昇気流が続くと、下から押し出されるトコロテンのように次々と凝結高度を越えていく水蒸気によって積雲は上方へと成長していく。成長が続くと雄大積雲や積乱雲という雲になっていくのだが、多くは上昇して来る湿度の高い空気の塊が途絶えることで成長が止まり、やがて水分が周囲の乾燥した空気に溶け込んで行くことで積雲は消滅する。
この発生から消滅までの過程は非常に短く、積雲はわずか数分で消えてしまうことがある。
「そういう消滅しかけてるやつを見つけたら、あとはどんなポーズ取ってようが勝手に消えてくれるからな」
そう言って師匠は笑った。
なんだ、やっぱりインチキじゃないか。僕はさっきの老人の姿勢などに関する厳しい直接指導を思い出し、釈然としなかった。
「まあ、ああいう人なんだ。許してやれ」
「どういう人なんですか一体」
ああいう雲消しを気功術の修練だとか言って、新興宗教にハマるような人たちを集めて『奥義』を伝授し、謝金をせしめてでもいるのだろうか。
胡散臭いことおびただしい人物だが、実際に目の前で雲が消えると妙に説得力がある。そんな詐欺もありえなくはないと思った。
しかし師匠は笑って手を顔の前で振った。
「あのじいさんは元バイク屋のおやじだよ。なかなか手広くやっててな、隠居して息子夫婦に店を譲ったあとは楽隠居の身で、好きなことをしてるってわけだ」
そして元々林業をしていたという先祖伝来の土地があの山にあったのをいいことに、そこに小屋を建てて半ば住み込みながら日がな一日現世とは掛け離れたような生活を送っているのだとか。
「雲消しはただの趣味だよ。何年か前に地元のテレビ局が取材に来て、消してるところが放送されたもんだから、自分もやりたいっていう連中が弟子入り志願に結構やって来てな。金も取らずに気軽に教えてくれるっていうんで、しばらくはちやほやされてたみたいだけど、今じゃすっかり飽きられて、訪ねて来る弟子も私くらいだ」
「勝手に孫弟子にしないでくださいよ」
聞くと、肋骨、というのは雲の種類らしい。肋骨雲という雲だ。魚の骨のような形をしているやつらしい。
正直もっといい名前にして欲しかった。
「わた雲、は可愛らしい名前ですね」
師匠は頷く。
「私はテレビ放送される前からの弟子だからな。高校時代に押しかけたから。やっぱり可愛いんだろ。後からの連中は『もつれ』だとか『扁平』だとか、変な名前ばっかりつけられてる。傑作なのはハゲた中年のオッサンにつけた『無毛』だな。本当は無毛雲って、れっきとした積乱雲の一種なんだけど…… 怒って帰ったらしい」
おかしそうに言う。
それから少しの間沈黙があった。僕はおずおずと口を開く。
「最後の」
「ん。なんだ」
「最後に言ってた、空がおかしいってのは、なんですか」
師匠は山道を下りながら、つ、と足を止め、僕を振り返った。
「言うなって、言われたからな」
さっきまでの冗談めかした表情ではなかった。また得体の知れない不安が腹の底から湧き出てくる。
空って、この空が何だって言うんだ?
僕は思わず天を仰ぐ。夏らしい、冴え冴えとした青が頭上高く広がっている。なにもおかしなところなどない。
師匠もつられるように空を振り仰ぐ。山道の両脇から伸びる高木の枝葉が陽光を遮り、僕らの目元にモザイク模様に似た影を落としていた。
師匠は目を細めながら空を指差し、「あの一つだけ離れた雲を見てみろ。周囲が毛羽立ってるだろ。ああいうのがこれから消える積雲だ。覚えとけ」
「はあ」
きっと生きて行く上で何の役にも立たないだろう。そういう知識を僕は師匠からたくさん詰め込まれて、毎日を過ごしていた。

それから数日後のことだ。
僕はそのころ読唇術にハマッていた師匠の練習にしつこくつき合わされていた。
「おい、今日はエッチな言葉を言わせようとしたらだめだぞ」
「分かってますよ」
パクパクパク。
口だけを動かし、声には出さずに喋っている振りをする。それだけで師匠はある程度は言葉を言い当てられるようにはなっていた。
深夜の十二時を回っていた。蒸し暑い師匠の部屋で差し向かいになること二時間以上。延々とパントマイムのように口だけを動かしているのも飽きてくる。だから、多少のイタズラを混ぜるのだが、師匠にはその冗談がなかなか通じない。
パクパクパク。
パクパクパク。
「……お前、それは……」
師匠が難しい顔をして僕を睨んでいる。
外は雨が降り始めたようだ。安アパートの屋根を叩く雨音が嫌に大きく聞える。負けじと大きく口を開けた。
パクパクパク。
パクパクパク。
『上杉達也は、朝倉みなみを愛しています。世界中の誰よりも』
タッチという漫画の有名なセリフを模写しているのだが、名前の部分を多少変えてあった。手近な二人に。
師匠が黙ったままなので、もう一度繰り返そうとした時だ、ふいにあたりが暗くなった。
僕は最初、日が翳ったのだ、と思った。
夏の昼下がり、大きな雲が空を通り過ぎる時にあるような、あの感じ。
まさにあれだ。
……
凍りついたように時間が止まる。僕と師匠の二人の時間が。
部屋の中を日の翳りがゆっくりと移動している。その境目が分かる。畳の上を、暗い部分が走っていく。
やがて暗くなった部屋にいきなり明るさが戻る。暗い影が落ちているところが、僕らの上を通り過ぎ、部屋の隅まで行くと、同じゆったりしたスピードのまま壁の向こうへと去って行った。
何ごともなく、部屋は元に戻った。
ドッドッドッドッドッ…………
心臓の音がとても大きく聞える。僕の身体は凍りついたように動かない。唾を飲み込もうとして、喉が攣りそうになっている。
くは、という声が出た。
向かい合っていた師匠も、目を見開いて身体を硬直させている。
なんだ、今のは。
理性が答えを探すが、まったく見つからない。
頭上を、分厚い雲が通り過ぎた。
それだけのはずだ。一瞬、日が翳り、そして雲が通り過ぎて周囲に明るさが戻った。
ただそれだけの。
なんの変哲もない出来事だ。
今が、夜でさえなければ。
「うそだろ」
師匠が顔を強張らせたまま一言そうつぶやく。
ここは部屋の中なのだ。そして深夜十二時を回っている。当然部屋の明かりをつけている。天井にぶらさがる丸型の蛍光灯。明かりはそれだけだ。
その蛍光灯には全く異常は感じられない。ずっと同じ光度を保っている。消える寸前の瞬きもしていない。
外は雨が降っている。暗い夜空には厚い雲が掛かっているだろう。その雲のはるか上空には月が出ているかも知れない。けれど、人工の明かりに包まれたアパートの室内に一体どんな力が作用すれば、ないはずの日が翳るなんてことが起こり得るのか。
じっと同じ姿勢のまま息を殺していた師匠が、ふいに動き出す。
「なんだ今のは」
焦ったような声でそう言うと、異常を探そうとするように窓に飛びつく。カーテンを開け、窓の外を覗き込むが、ガラスを雨垂れが叩くばかりでなにも異変は見つからない。
師匠は窓から離れると、靴をつっかけて玄関から飛び出した。僕も金縛りが解けたようにようやく動き出した身体でそれに続く。

外は雨だ。額に、顔に、大粒の雫がかかる。雨脚はさほど強くないが、空を見上げようとしても、なかなか目を開けられない。
それ以前に、真っ暗な空にはどれほど目を凝らそうとも何も見えなかった。
目を細めていた師匠が「くそっ」と短く叫ぶと、家の中に取って返した。一分と経たずに飛び出してきたその手には、車の鍵が握られていた。
「来い」
師匠は僕にそう言うと、駐車場へと駆け出す。
「こんな雨の中、どこ行くんです」
僕は追いかけながら叫ぶ。心臓がドクドク言っている。さっきまでの穏やかな時間はどこに行った? ていうか、返事は?
エンジンが掛かる音を聞きながら助手席に飛び乗る。
「傘も何も持って来てないですよ」
運転席の師匠に訴えるが、師匠は親指で後部座席の方を示し、「合羽と傘は常備品だ」と言って車を急発進させた。
フロントを叩く雨粒を跳ね飛ばしながら、ボロ軽四は住宅街をありえない速度で走る。急ハンドルを切っている間に電信柱が迫るのが見えて思わず仰け反った。
「な、ちょ、な……」
何か喋ろうとすると、舌を噛みそうになる。これほど乱暴な運転は珍しい。どうして師匠はこんなに焦っているんだ?
幹線道路に出て、さらにスピードが上がる。しかし右へ左へという横へのGがなくなったので、ようやく一息ついた僕は「なんなんですか。どこに行くんです」と訊いた。
「通ったんだよ!」
師匠がハンドルにしがみつきながら叫ぶ。
ゾクリとした。
通った。そうだ。さっきの、室内が一瞬暗くなる現象。あれは、何かが通ったのだ。雨雲で覆われた上空を、巨大な何かが。まるで無いはずの光源を遮るかのように。
ぞわぞわと肌が浮き立つ。何度も経験した小さな怪異とは、全く違う。いつもの日常とほんの少しだけずれた不思議な出来事なら、これほど師匠が取り乱すことはない。
そんなものと比較にならない。人知の及ばない、何か。
僕は雨だれが車の屋根を打つ音に聞き耳を立てる。
「どこへ行くんです」
もう一度その問いを投げかけると、「山」という短い答え。
「なぜです」としつこく訊くと、うるさいな、という感じで師匠は「ここに居たんじゃ、よく見えないからだ」と言った。
「山の方は、風下だ。降り始めてからまだたいして経ってない。雨雲がまだ到達してない可能性が高い」
雨雲が到達していなかったら、なんだと言うんだ。重ねてそう訊ねようとして、その前に答えに思い当たった。
見たいのだ。師匠は。一体何が上空で起こっているのか。あるいは、空の下の街で、今何が起こっているのか。
そして車線変更をした瞬間、数日前に登ったばかりの山に向かっていることに気づく。師匠がせんせいと呼ぶ、雲消し名人のいる山にだ。
車が山道に入る手前で、雨脚が急に弱まりやがて完全に止んでしまった。雨雲の先端を抜けたのだ。
水気を失ったワイパーが耳障りの悪い音を立てる。くねくねと曲がりくねる山道をガードレールすれすれで登り続け、前回の登山口に差し掛かったが、止まらずに通り過ぎた。道は悪くなったが、まだ車で先へ行けるようだ。
途中、師匠がふいに口を開いた。
「お前、気づかなかったか」
「何にです」
「雲だよ。雲。空に、変な雲が浮かんでたろ」
「変な雲?」
いつのことだろう。そう思って訊いてみると、師匠は「このところずっとだ」と吐き捨てるように言った。
「ドーナツみたいな形の雲だ」
何故かゾクッとした。確かに見ている。最近、何度か。しかしそんな食べ物に似た形の雲なんて、お腹が空いていたら何でもそう見えるってだけのことじゃないのか。
「ずっと見たか」
「え?」
「そのドーナツ雲をずっと見てたか」
「ずっとは、見てないです」
そう答えた僕に、師匠は奇妙なことを言った。
「穴の位置が変わっていない」
見続けていたら分かることだ。
師匠は険しい顔のままで言う。
「楕円形に近い形の大きめの積雲が、風に流されている間に、急に先端が凹むんだよ。その凹みが内側に入り込んで来て、先端がまた雲で塞がる。それで穴が出来るんだ。雲はドーナツに似た形になる。穴の位置はどんどん風上の方へ移動していく。雲が動いていくのに、穴の絶対位置が変わらないからだ」
穴の位置が変わらない? どういうことだ。
雲は風に乗って流れて行く。
空全体が流れて行く中で、絶対位置というものが意味するものを考える。その時、頭の中に奇怪な想像が浮かんだ。
そんな、馬鹿な。ありえない。
思わず口に手を当てていた。
流れる空における絶対位置とは、地上の位置のことだ。地上の同じ地点の上空に、雲の穴が出来ている。
そこから導き出される絵が……
脳裏に瞬く前に、師匠が車を止めた。
「行くぞ」
「ちょっと待って下さい」
僕は後部座席にあるはずの傘と合羽を探したが、見つからなかった。常備品が聞いて呆れる。
師匠は平然とドアを開けて外に出た。慌てて僕も飛び出して、追いかける。雨は降っていないが、あたりは真っ暗だ。車から持ち出した懐中電灯で前方を照らしながら師匠が早足に進む。
行き止まりに見えた舗装道から、奥の藪を抜けると前回歩いた覚えのある山道に出た。かなりショートカット出来ている。その道を二人で急ぐ。もちろん登る方へだ。
足元が良く見えない分、ガサガサという下生えの感触が気持ち悪い。蛇の尻尾を踏んでしまっても分からないだろう。
そうして十分かそこらは歩いただろうか。
『ここから先、私有地』という立て札が懐中電灯の明かりに浮かび上がったが、その枝道には入らず、僕らは先へ進んだ。
やがて道が開け、左側が崖になっている場所に出る。街が一望できる絶景だ。崖の側まで近づくと、遠くの地上に小さな星のような光が微かに輝いているのが見える。街の明かりだった。
崖の手前の平らな岩の上に、立っている人影がある。
「せんせい」
師匠が呼びかける。するとその修験者姿の老人が振り向いた。
「何をしに来た、わた雲」
声が嗄れていた。口にした瞬間、ゴホゴホと咳き込む。
「あ……」
そんな老人が屈む姿にも目を向けず、師匠は真っ直ぐ前を見て絶句し、呆然と立ち尽くした。
空が。
真っ暗な空がある。
暗さに慣れた僕らの目には、そこに浮かぶ巨大な入道雲の姿がかろうじて捉えられる。闇と同化する夜の雲の群の中に、その雄大な輪郭がわずかに浮かび上がっている。
山の上の雲の切れ間から覗く微かな月光のためだった。
入道雲の底は、明かりもまばらな街の上空を覆っている。巨大な蓋のように。その雲の底から、異様なものが突き出ていた。
「手…… 手だ……」
思わず僕は呻くように呟いた。声が震えた。目を細めてもっとよく見ようとする。
手だ。
巨人の手が、漆黒の入道雲の底から出ている。
いや、雲だ。あれも。
巨大な手のように見える形の奇怪な雲。長い棒と、少し膨らんだ手のひら、指。肘から上の部分が下向きに伸びている。
この距離からでも分かる。夜の暗さに混ざり合いながら、密度の違う黒が、そんな形をしているのが。
「じじい、あれはなんだ」
師匠が前方を見据えながら、前回のようなどこか柔らかい物腰を取り払って、鋭い口調で問い質した。
「……雲だ」
「本当に雲か」
老人は小刻みに震えながら小さく頷く。
「び……尾流雲だ……いや、違う。違う。形は近いが、あれは、あれは…… 馬鹿な。あんな形の……」
「おい、じじい。なんだ。はっきりしろ。あれはなんだ」
師匠が詰め寄って老人の方を揺する。
「ろうと」
「なに?」
「ろ……漏斗雲だ……!」
「漏斗雲って、竜巻になるやつか?」
師匠はそう言って崖の方を振り返った。
僕も岩の先に近づき、限界まで身を乗り出す。全神経を集中して目を凝らすと、雲の底から伸びる手の先が少し見えた。
腕の部分は筒状になっている。そしてその先は何本かに分かれていて、まるでそれが指のように見える。何かを掴もうとしているみたいに広がって、地上に降下しようとしていた。
「漏斗雲って確か、積乱雲とかの底から降りてきて地面に降りたら竜巻になるやつだな。あんなでかいのか」
師匠が問い掛けると、老人はいきなり「ええええい」と叫んだ。
そして両腕をいっぱいに突き出し、「消えろ」と喚く。
雲消しだ。
だが前回見た時より、なにか違う。腰を落とし、右手と左手を交互に突き出し。その両手が交差する瞬間に、なにかの印を結ぶ。そして一定のリズムで両手の押し引きを繰り返し始めた。
「あんな、指みたいな形になることがあるのかって、聞いてるんだ」
師匠が怒鳴るが、全く耳に入っていない様子で、老人は雲消しの動きを繰り返している。
あんな巨大な雲が消せるのか。
師匠は種明かしをしていたじゃないか。消せるのは、いや、正確に言うと、消えるのは消滅しかけの小さな積雲だけだと。
僕は立ち尽くし、呆然と目の前に広がる信じ難い光景を見ていた。闇の中に異様な密度を持って浮かんでいる巨大な入道雲。真っ黒なその姿は何とも言い難いような禍々しさを秘めていた。
中国の古い物語を読んでいると、「不吉な雲気」が空にあるのをみて、凶兆だとする話がよくあったことを思い出した。
不吉な雲気とはどんなんだろうと思っていたが、もしそんなものが本当にあるのなら、目の前のこれがそうだろうという確信に似た思いが浮かぶ。
「ふざけるな」
師匠が誰にともなく吼える。
頬を震わせ、両手を強く握り締めている。
「やめろ…… やめろ!」
そしてその視線の先には恐ろしい巨人の手が。
巨人の手?
その時、僕の脳裏に光が走った。この山上に登る途中で浮かび掛けたイメージが、再来したのだ。
ドーナツ型の雲。
その穴。
穴の位置は変わらない。風に流れる雲に逆らって、穴の位置だけが。地上の同じ地点の上空に、必ず穴がある。
見えてくる。見えてきた。イメージが勝手に、透明なものの、ありえないはずの輪郭を絵取っている。
巨人だった。
目に見えない、巨大な人型のなにかが、じっとそこに立っている。円筒のように雲を刳り貫いて。そして雲はドーナツの形になる。見えない巨人は途方もなく大きい。遥か上空にある雲を突き抜けている。一体どれほどの大きさなのか想像もつかない。
巨人。巨人……
僕は身体の芯が震えた。そんなものが存在するはずがない。師匠がこのあいだ巨人について調べていたことが、なにかの予兆のようなものだったのか。
「やめろ」
師匠が食い破ろうとするような目付きで、目の前のありえない光景に身を乗り出す。
真っ黒な雲の底から伸びる手が、渦を巻きながら同時にその指先を幾本も地上に垂らそうとしている。
あれが地上に落ちたら、竜巻が発生するというのか。鈍重な雲の下にいる人々は、その迫る危機に気づかず、眠っているのだろうか。
惨事の予感が身体を貫く。恐怖が押し寄せてくる。
こんなことがあっていいのか。
ガチガチと歯の根が合わない。
ただの自然現象ではないことは直感で分かる。では、自然現象ではない自然現象とは、一体なんだ? 
一体なにものにこんなことが起こせるというのか。
その時、ハッと気づいた。
指の先にばかり目を奪われていたが、その上部にある腕の部分はなんなのだ。もし。もし、あの指がすべて地上に落ち、竜巻を無差別に発生させたとしても、それで終わるのか? 指が地上に落ちた後、腕がそのまま降下したとしたら……
とてつもない大きさだ。
あれが、竜巻になるのか。うそだろ。
想像しただけで、目の前が真っ暗になった。
師匠を振り返る。
しかし同じ格好のまま、立ち尽くしているだけだ。
どんな心霊現象にあっても、師匠ならなんとかしてくれる。そんな幻想を抱いていた。でも、こんな、こんなものは。どうしようもないじゃないか!
目の前で起こる異常な現象をここで見ていることしかできない。
僕らは日常の隣にある不思議な世界を何度も見てきた。それは日常のほんのちょっとしか隙間から覗くことができたし、時には日常に影響を及ぼすこともあった。だがそれは僕たちに違和感を、恐怖を抱かせるだけの現象に過ぎなかった。
しかし、今目の前で起ころうとしていることは、日常とそういう世界の間の境界線が破れてしまうことに他ならなかった。
「えええええい! ええええええええい!」
老人が一心不乱に雲を消そうとしている。
ぽつり、と僕の額に雨の粒が落ちた。雨雲が移動して来たのだ。街なかを濡らしていた雨雲が、風に乗ってここまで。
ぽつ、ぽつ、と雨が岩の上に落ちる音が聞えてくる。
傍観者だった。
僕は無力で、見ていることしかできなかった。恐怖に身体を縛られながら。
思わずその場にへたり込んだ。岩の冷たさが、尻のあたりに伝わってくる。

や…… め…… ろ……

師匠は押し殺した声でそう言うのを隣で僕は聞いていた。
その時だ。
僕の中に別の感情がふいに浮かんできた。
なんだこれは。
一瞬、周囲の音が消える。真っ暗な描画の世界で、僕の中に浮かんだ感情の正体を見つめようとする。しかし厚いベールの奥にあったのは、恐怖だった。恐怖に支配された身体の中に、さらに恐怖が潜んでいた。



一音節ずつの言葉を聞きながら、別の種類の恐怖がだんだんと大きくなって行く。
それは目の前の異常現象に対するものよりも、大きくなりつつあった。
首の中に無数の鉄の欠片が混ざり込んだように、ギシギシと音を立てている気がする。僕は、すぐ隣を振り向けなくなっていた。すぐ隣に立っているはずの人を。
雨が強くなり始めた。髪に、額に、肩に雨粒が落ちてくる。
影の群。闇に浮かぶ顔。声だけの死者……
どんな心霊現象にも、対応してきた。解決し、消滅させ、時に逃走し、けっして負けなかった。
しかし。
だめだ。
これだけはだめだ。
これだけは止めてはだめだ。
僕は自分の中に育ち始めたその別種の恐怖を抑えながら、声にならない声をあげる。背後からは老人の掛け声がいやに空疎に響いてくる。
さっきまで目の前の異常な自然現象に、止まってくれという無力な念を送っていた僕の思考が、完全に反転した。
止まるな。
止まるな!
ガタガタと膝が震える。たった二メートル隣が振り向けない。
その僕の視界の端に、微かな光の粒子が見えた気がした。

どれくらい時間が経っただろうか。
全身を大きな雨粒が叩いている。周囲はますます暗くなり、視界が利かなくなった。空に稲光が走る。
その瞬間、老人が動きを止め、僕のすぐ横に顔を突き出した。
「消えおった」
そう言って絶句する。
驚いて僕も雨雲の彼方に目を凝らすが、もう何も見えない。すべてが漆黒の海に沈んでしまったかのようだ。
「消えた」
師匠も僕のすぐ前に足を踏み出し、上気した声をあげる。
「風だ。雨雲が流されて、途切れたんだ」
目を見開いて僕を振り返る。濡れた髪が額に張り付いているけれど、いつもの師匠だった。僕も立ち上がった。
そうか。
今いる山の方角が風下だ。雨雲がこちらへ到達して、街の方はあの巨大な入道雲、つまり積乱雲の下から逃れたんだ。
だが、あの奇怪な現象までがこちらにやって来るわけではない。それが直感で分かる。
なぜなら、何度も見たドーナツ雲の穴は地上から見たその位置が固定されていたからだ。
「あれ」は多分、そこを動けない。そして雲にしか影響を与えられない。雲さえ途切れてしまえば、何も出来ない。
それも、普通の積雲ならその位置にいくらあっても無力だ。元々竜巻を起こすポテンシャルを持った積乱雲があって初めて地上に破壊的な力を及ぼすことが出来るのだ。
なぜかそれが分かる。
人知を超えた力で捻じ曲げられた気流が、雲が、その力から逃れたのだった。
「消したぞ。わた雲。どうだ」
老人が両手を振り回しながら喚く。その時、稲妻が走り、光で空が切り裂かれた。直後に轟音が響く。
「まずいな。雷雨だ」
師匠はそう言って、老人の肩を抱えた。
「せんせい、山小屋に非難しましょう」
「わしが消したのだ!」
老人は上ずった声でそう繰り返した。
「行くぞ」
師匠は僕に目配せすると、口に懐中電灯を咥え、老人を半ば引きずるようにして山を降り始めた。
僕は岩を降りる時に足を滑らせてしまい、尻餅をついた。師匠の持つ懐中電灯の光が遠ざかりつつあるのに焦り、慌てて立ち上がる。ますます雨が強くなる山道を恐る恐る降りて行く。
僕は一度だけ背後を振り返った。
視界がなくなり、もう地上の光も何一つ見えない。その上空にあった入道雲も。あの手のような形のものも。
ただ、僕の頭は想像している。
雨雲の彼方にそびえ立つ、とてつもなく巨大な人影を。
それは透明で、けっして目には見えない。しかし、顔の位置にある、何もない空間がこちらを向いている。それが今、僕らのことを見ている。
その凍るような視線を背中に感じながら、僕は縮こまりそうな足の筋肉を叱咤し、師匠の後を追い掛けた。
 
(完)
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ウニさんのPixiv/師匠シリーズ「雲」より転載させていただきました。

 
 

『師匠シリーズ』作者、ウニさんについて

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ウニさんの本 書籍 / コミック 作画:片山 愁さん

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