眼と耳で読む師匠シリーズ

【眼と耳で読む】巨人の研究【師匠シリーズ】

※ウニさんの作品はPixiv及び「怖い話まとめブログ」さまより、
Youtubeの動画は彼岸さんのUPされている136さんの朗読をお借りしています。
耳で捉えた物語を目で文章を追うことで、さらにイメージは大きく膨らんでいくのではないでしょうか。
 
 


※長編のため読み込みに多少時間がかかります。少しお待ちくださいm(__)m
 

[h2vr]
「巨人の研究」

 

師匠から聞いた話だ。

 
大学二回生の夏。ある寝苦しい夜に、所属していたサークルの部室で数人の仲間が集まり、夜通しどうでもいいような話をしてだらだらと過ごしていた。
酒も入っていたし、欠席裁判よろしく嫌いな部員の話や色恋沙汰に関する話が主だったが、その中である同い年の女の子がふいに流れを断ち切って、こんな話を始めた。
「そういえば、このあいだ変なもの見たんだよね」
「変なって、どんな」
「なんていうか、小人?」と自分で言いながら小首を傾げている。
彼女が言うことには、数日前の夕暮れ時に街を歩いていると急に雨が降ってきたのだそうだ。傘を持っていなかった彼女は慌てて雨が避けられる路地裏に駆け込んだ。そしてすぐに止みそうかどうか、空模様を気にしながら往来の方を眺めていると、足下になにかの気配を感じて飛び上りそうになった。ネズミかと思ったのだ。ところがよく見ると、ゴミの収容ボックスの陰にいたのは小さな人間だった。体育座りのような格好で無表情のまま前を向いてたたずんでいる。大きさは自分の手のひらくらいだろうか。白いシャツと青いズボン。おカッパ頭の若者のような容姿。そのあたりは薄暗くてはっきりとは見えなかったけれど、人形とは思えなかった。ぼそぼそと口元が動いているようにも見える。
身体は凍りついたように動かない。真横にいる小人のようなものへ視線だけを向けていると、眼球を動かす筋肉が疲れて鈍い痛みがやってくる。
私が気付いているということに小人が気付いたら、いったいどうなるのだろう。
そう思った瞬間、どうしようもなく恐ろしくなり、雨が降り続いている道路へ向って後ろも見ずに駆け出した。
「怖かった、ほんと」
心なしか青ざめた顔で話し終えた彼女へ「人形が捨てられてただけだろう」という突っ込みが入ったが、「あれは人形じゃなかった」と繰り返した。
理由は直感だそうだ。
周りもそれ以上追及せず、「なんだかわからないけど、気持ち悪いな」という空気だけが漂っていた。
「そう言えば私も見た」
別の女の子が口を開く。
「夜中の十二時過ぎくらいだったと思うけど、バイト帰りにいつもの道を通ってたら変な声が聞こえてきてさあ」
そうして身振り手振りで説明してくれたところを要約すると、こういうことらしい。
一週間ほど前のバイト帰りでのこと。自転車で住宅街を通り抜けていると、急に前方から人の話し声が聞こえてきた。小さな声だったが、それらしき人影が見当たらないので妙に気になり、キョロキョロとしながらペダルをこぐスピードを落とすと、「ビン」「ビン」という単語が耳に入ってきた。
ビン?
コーラの空きビンとかのビンだろうか。そんなことを思いながら聞こえて来た方向を見るが、民家の玄関があるばかりでやはり人の姿はない。
恐る恐る近づいて行き、遠くの電信柱に取り付けられた電灯の明かりにうっすらと照らされているブロック塀に添って、その向こう側を伺う。中庭を隔てた敷地の中には明かりのついた部屋の窓がいくつか見えるが、玄関の門扉のあたりにはまったく人の姿はない。身を乗り出してブロック塀の内側を覗き込んでみたが、やはり誰も潜んではいなかった。
おかしいなと思いつつ、立ち去ろうとするとまた「ビン」「ビン」という小さな声が聞こえてくる。ぼそぼそとしたその話し声の中に「コーヒー」という単語も混じっている。
気持ちが悪くなり、もう帰ろうと自転車に足を向けかけた時、ブロック塀の上に取り付けられた木箱が目に入った。前面に飲料会社のマークが付いている。牛乳の配達をしてもらっているらしい。ビンとはこのことだろうかと思って近づくと、「ビン」「コーヒー」というぼそぼそとした声が、その木箱のあたりから聞こえてくる。
ぞっとしながらも、好奇心に負けて手を伸ばすと、木箱の上蓋は何の抵抗もなく開き、その瞬間に声がぴたりと止まった。
木箱の中には牛乳ビンが二本、封をされたまま残されていて、そのビンと木箱の間のわずかな隙間に小さな顔が二つ覗いていた。
その二つの顔は呆けたような目を彼女の方へ向けている。
悲鳴を上げて彼女は逃げ出した。
「ホントにほんと。小人がいたんだって。箱の中に」
語り終えた彼女へ、牛乳ビンの他になにか別のものも入っていて、それが顔のように見えたのではないかという疑問がていされたが、彼女はあくまでも見間違いではないと主張した。
家の人が取り忘れたのであろう牛乳ビンについて、夜中小人がなにごとか話し合っていたというのか。奇妙な話だ。
「それに顔見る前に声が聞こえてたし。ビン、ビンって」
「でもそれって、配達用の箱が先に目に入ってたから聞こえた幻聴じゃないの」
「なんで。ビンだけじゃなくてコーヒーとかも言ってたし。コーヒーってなんだろうって思ったもん。それで箱の蓋開けたら、牛乳ビンが二本あって、片方色が違うんだよ」
「え?」
周りの仲間が気味の悪そうな声を出した。
「だから、片方コーヒー牛乳だったんだって」
なるほど。箱を開けるまで知りえなかった情報があらかじめ示されていたわけだ。幻聴だと言っていた一人も薄気味悪そうに黙り込んだ。
「実は僕もこの間……」
それまで黙って聞いていた男が手を挙げたかと思うと、おずおずと話し始めた。
数日前、真夜中に部屋に一人でいたとき、ふいに誰かの視線を感じて、思わず「誰だ」と口にしたものの、誰もいるはずがないと苦笑した。その直後にまた誰かの視線を首筋に感じる。刺すような視線。うそだろう、と思いながら視線の感じる先に恐る恐る近づいていくと、本棚の後ろに女の横顔が見えた。
顔の左半分だけが壁と本棚の隙間から覗いていて、眼だけがギョロリとこちらを見ている。そんな隙間なんて、あっても一センチか二センチだろう。
彼は叫び声を上げて、近くにあった雑誌を顔に投げつけた。壁にあたってずるずると落ちる雑誌の向こうに妙にくすんだ肌色がまだ見えた気がして、喚きながら雑誌と言わずそこらにあったものを手当たり次第に投げつけた。
何も投げるものがなくなったころ、荒い息を吐きながらそちらを見ると、もう顔は見えなくなっていた。彼は本棚に全身を預け、わずかな隙間もなくなるように壁に向って力いっぱい押し付けた。子どものころに祖母に習ったうろ覚えのお経を唱えながら。
「それからその顔、出たの?」
「いや、その時だけ。でもあんなの見ちゃったら寝てられないよ。引っ越そうかなあ」
「そういや、私も友だちに聞いたんだけど、つい最近……」
そうしてその後も、小人やありえないほど狭い場所で人の姿を見たというような怪談話が口々に語られていった。
本人が体験したという話は最初の三人だけだったけれど、これほど似たような体験談が溢れ出てくると気味が悪い。
僕は黙って相槌を打っているだけだったが、どれも最近の話だということに引っ掛かりを覚えていた。
あえて口に出さなかったが、実は自分自身も三日ほど前に小さい人を見ていた。夕食後に近所を散歩していた時のことだ。最初は子どもかと思ったが、道路に倒れこんで足をバタバタとさせていたのに、通行人の誰もがそちらを見ようともしていないことと、子どもにしても小さ過ぎるので、これはこの世のものではないと直感した。
小人は苦しげにもがいていたが、やがてずぶずぶと沈み込むようにアスファルトの中へ頭から消えていった。
自分の経験上、夏は特に霊感が高まる季節なので色々と奇妙なものを見てしまうのだが、小人のような霊を見てしまうことはあまり記憶になかったので、強く印象に残っていた。
(師匠に話してみるか)
友だちの体験談から、だんだんと誰から聞いたのかも分からないようなあいまいな噂話の類へランクが落ちて行っているにも関わらず、ますます盛り上がりを見せる即席怪談話大会を尻目に、僕はオカルトに関して師事している人の顔を思い浮かべていた。

その翌日のことだ。
正午を回ったころに、僕は自転車を駆ってある家を訪ねた。昨日サークルの部室で聞いた怪談話について、こうした出来事に造詣の深い自分の師匠ならどう思うだろうかと、意見を拝聴しに来たのだ。
ボロアパートの部屋の前に立ち、ノックをしたが反応がない。念のためにしばらく叩いていると代わりに隣の部屋のドアが開き、住人が顔を出して「お出かけのようです」と教えてくれた。
礼を言ってもう一度自転車に跨る。今日が土曜日だったことを思い出し、この時間ならあそこだろうとあたりをつけてハンドルを切った。
スピードを上げるとアスファルトで熱された空気が巻きあ上がるように頬にまとわりつくが、じっとしているよりもまだ心地が良い。
やがて目的の公園が見えてきた。公園と言ってもちょっとした球技ができる程度の広さがあり、大勢の子どもたちの掛け声が聞こえてくる。
「腰落とせ、おらぁ」
その声に混じって、子どもではない人の声が一際大きく聞こえてきた。
公園の球技用フェンスの前に自転車が止まっている。近づいてみるとやはり師匠のものだった。
フェンスの向こう側では、小学生と思われる十人以上の子どもたちがグローブを手に、土のグラウンドの上を転がりまわっている。
「セカンドどうしたっ、カバーが遅いぞ」
また大きな声を出しながら、金属バットで強烈なゴロを打っている女性がいる。師匠だ。
次々と放たれる白いボールに子どもたちが飛びついて行く。その瞳には、やる気に燃える鋭い光が……ない。うんざりしたような暗い表情で彼らは自分の身体を叱咤するように動かしている。
怒鳴られるから仕方がない。そんな雰囲気がありありと見とれる。
「何度言ったらわかるんだ。手で取りにいくな。腰落として身体で取るんだよ!」
子どもたちのイヤイヤ感などおかまいなしに容赦なくノックは続く。
師匠はその昔、少年野球で男の子に混じって活躍していたことがあるそうで、毎週土曜日にここで野球あそびをしていた子どもたちのふにゃふにゃした動きを見るにつけ、居ても立ってもいられなくなり、昔取った杵柄で金属バットを手にコーチを買って出たのだ。
もちろん子どもたちは喜んでいない。この変なお姉さん、早く帰ってくれないかな、と内心思っているに違いない。
彼らにはユニフォームもない。本当にただの野球遊びであり、どこかの少年野球チームと練習試合をするあてもないのである。
その彼らに、師匠はバントシフトやヒットエンドランなど、無意味と言っていい練習をさせている。このあいだなど、ライナーをとっさのグラブさばきでみごとに捕球した遊撃手に対して、「落してゲッツー狙いにいけるタイミングだろうが!」などと怒鳴っていた。かわいそうに。
そんな無駄に高いレベルを求めるのであれば、コーチとしてチームの体裁を整え、保護者からお金を集めて、ユニフォームを作り、近隣の少年野球チームに話をつけて練習試合の一つや二つ段取ってあげるのが筋だと思うのだが、彼女はそうしたことには無頓着で、ひとしきり身体を動かすとそれに満足して「少し休憩」ではなく「あとはやっとけ」と帰ってしまうのだ。完全に自己満足である。
子どもたちもある程度の時間我慢していれば、この変なお姉さんは帰ると分かっているので、口答えもせずに嫌々ながらも従っているようだった。
僕はなぜか申し訳ない気持ちでグラウンドの方へ近づいていった。
その時、師匠の自転車のカゴに一冊のノートが入っているのに気がついて足を止める。
ノート?
近づいて手に取ると、それはどこにでもあるキャンパスノートで、表紙には『巨人の研究』と黒のマジックで書いてある。
そんなに本気かよ。
プロ野球チームの戦術だか技術を小学生に叩き込む気か、と呆れてしまった。
「よおし、かなり動きが良くなったぞ。もう帰るから、あとはやっとけよ」
良く通る声で爽やかにそう告げると、師匠はタオルで汗を拭きながらこちらに引き上げてきた。「ぁしたー」という、嫌に空虚な合唱がその背中を追いかける。
振り返りもせずに右手をひらひらと振って応える師匠は、前に僕が立っているのにようやく気付いたようだ。
「どうした。お前もやりたいのか」
「遠慮しておきます」
師匠は僕のそばまでやってくると、ジャージの土ぼこりを払いながら、腹減ったと呟く。
「昼、まだですか」
「ああ。一緒に食うか。家にもらいものの素麺があるぞ」
軽く食べてきてはいたが、せっかくのお誘いなので御相伴にあずかることにする。
「それにしても、ジャイアンツの研究をするのは勝手ですけど、子どもで試すのはやめてくださいよ。そもそも巨人ファンでしたっけ?」
「なに言ってんだ。こちとら子どものころから阪神ファンだけど………… って、ああ、これのことか」
師匠は吹き出しそうになりながら自転車のカゴからノートを取り出した。
「巨人って、ジャイアンツのことじゃないよ」
笑いながら言う。
「じゃあなんですか」
「お前、そのことで来たんじゃないのか」
「は?」
「小さい人を見たって話だろ」
ゾクリとした。
さっきまで笑っていた師匠の目が、一瞬でこちらの目の奥を透視するような鋭さを帯びた。
「どうして分かるんです」
「そこまでの鈍感野郎じゃないと、期待していたから」
師匠は自転車に跨った。
「いつくるか、いつくるかと待ってたんだけどな。ジャイアンに空地へ連れ出されたのび太を、家で待っているドラえもんみたいな心境で」
まあ、家で話そう。腹減った。
そう言って師匠は自転車をこぎはじめた。僕はショックを受けたまま、それでもついて行こうと後を追いかける。
なんだ、この人は。
出会って以来、何十回、何百回目かも分からない言葉を呟きながら。

二人して大皿に盛られた素麺を食べつくし、ようやく人心地がついたと言ってあぐらをかく師匠に「こんなに沢山どうしたんです」と、まだ残っている素麺の束のことを問うと、「消防団に差し入れがあってな」という答えが返ってきた。
この人は学生だというのに、地元の消防団に所属しているのだった。それも副班長だというのだから、あらためてそのバイタリティには驚かされる。
「で、そっちの話から聞こうか」
師匠が麦茶を二つのコップに注ぐ。
僕は昨日部室で聞いたことをすべて話した。そして自分の体験談も。黙って聞いていた師匠は「それが昨日の話か」と確かめるように言って、このカスが、という顔をした。
「このカスが」
言われた。
気づいたのがようやく昨日とは遅すぎる、と言いたいようだ。
「お前は親殺しの夢の時にも前科があるからな」と付け加える。
その時のことは後から聞かされていた。今年の夏の初めに、この街の多くの人が自分の親を殺す夢を見たのだそうだ。僕もそのころ何度かそんな夢を見た気はするのだが、あまり気にせずにいたので、本気で危機感を覚えて原因究明に奔走したという師匠に散々こき下ろされたのだった。
しかし、そのことと小人を見たという話に何の関係があるというのか。
「いいか。小さい人を見るという怪談はよくありそうだが、怪談話全体の比率からすると少ない。それは幽霊というよりも妖怪的な存在だからだ。なぜなら、日本人の持つイメージの中で、死者の霊の現れ方としては一般的ではないから。小人を見たという怪談には、因縁話がからむことが少ない。幽霊を見たという話には、それが幻覚にせよ何にせよ、前提として死者への畏敬という『原因』が存在することが多い。ところが小人を見たという怪談には、見てしまった、という『結果』しかない。小人の姿でヒトのようなものが現れる必然性など、普通はないから。やはり幻覚にせよ、何にせよ、だ」
師匠は麦茶を一息に飲んで、カツンと音を立ててコップをテーブルに置く。
「まあ、なにが言いたいかと言うとだ。因縁話という『原因』があれば怪談は自然に発生するものだ。それがない小人目撃談はどうしても数が少ないんだよ。もちろん古来から続く、妖怪もしくは妖精的な存在という、それ自体が正体であり因縁となった小人伝説はある。東北の座敷童やアイヌのコロポックル、徳島の子泣爺。一寸法師や桃太郎に代表される童子型の英雄譚も小人の一種だ。遠く異朝をとぶらえば、ドワーフやレプラコーン、取り替えっ子をするピクシー、グレムリン効果で知られるグレムリンとかも小人だな。もちろんその手前に妖精という括りがまずあるけど。ただこれらはもちろん、現代において頻繁に目撃されるようなものじゃない」
「それはそうでしょう。座敷童なら今でも出るって噂の旅館とかありそうですが」
「そう言えば、旅館の座敷童の絵がまばたきするっていう恐怖映像があったな。まあそれはともかく、問題なのは小さい人を見たという話がここ最近増えているってのが、いかに異常な事態かってことだ」
師匠は右手で受話器を持つような仕草をする。
「実話って触れ込みのくだらない怪談ビデオを作ってるディレクターに知り合いがいるんだが、電話で訊いてみても特に最近そんな傾向は見られないとよ。少なくとも関東近辺では。予感はしてたが、恐らくこの街だけで起こっていることだ」
たかが小人を見たという怪談話を無駄に大げさにしようとしているように思えて、変な笑いが出てしまった。
じろりと睨まれる。
「お前は昨日ようやく三つ四つの体験談を仕入れたところかも知れないけど、わたしはここ二、三週間で既に少なくとも百以上蒐集している。もちろんこの街で、それも最近の話ばかりだ」
百以上? 予想外の数に驚いた。強調されるまでもなく異常な数だ。
一寸法師だとかドワーフだとか、具体的な恐怖心を抱きようのない話に頭が浸かっていたところから、一気に現実に引き戻された気がした。背筋がゾクリとする。
「なんなんです、それは」
「なんなんだろうな」
試すような目付き。
小人を見たという人が増えている? どうしてそんなことが起こる?
考えても分からない。口裂け女や人面犬のように、子どものコミュニティーの中で爆発的に広がる都市伝説はあるが、この小人の話はただ小さい人を見たという共通項があるだけで、現れ方に一貫性がない。都市伝説の類にしては違和感がある。
「なぜなんです」
素直に訊いた。答えがあるならば知りたかった。
師匠は野球の練習に持って来ていたさっきのノートをかざすように手にして、子どものような笑顔を浮かべた。
「虚心坦懐、相対的に物事を見れば、ある仮説が自然と導き出される」
そうしてノートの表にマジックで書かれた『巨人の研究』という文字をゆっくりと指さす。
「小人を見る人が増えているということは、巨人が増えているということだ」
バカだ。
とっさにそう思った。それから少し考えても、やはりバカだと思った。師匠はたまに突拍子もないことを言い出すが、これは酷い。
「デカイ小さいってのは常に相対的なものだ。コロポックルから見れば人間は巨人かも知れないが、大入道から見れば小人だ。そしてその大入道もダイダラボッチから見れば小人に過ぎない」
だからって、いくらなんでも巨人が増えてるなんて話にはならないだろう。巨人の研究って、そんな短絡的な理由で始めたのか。
「まあ聞け」
「いや、でも待って下さいよ。おかしいでしょう。話の出どころが巨人たち自身の噂話だとでも言うんですか。それ自体が立派な怪談、ていうかオカルトですよ」
「フレンド・オブ・フレンドだ。この手の話の出どころに正体はない」
「僕は体験した本人から聞きました。もちろん普通の学生です」
「わたしからすれば『友だちから聞いた話』だ」
「だったら連れて来ますよ。直接訊いたらどうですか」
憤慨してそう言うと、師匠は熱くなるな、というジェスチャーをする。「悪かった。今のは冗談だ」
どこまでが冗談なのだか……
目を細めて眉毛を下げながら右手をお辞儀させる師匠を前にして、僕はなんだか疲れてしまった。
「せっかく調べたんだから、巨人の話も聞いてくれよ」
好きにして下さい、という気分だった。師匠はノートを広げてパラパラとめくる。
「ようし。巨人と聞いてまず何を思い浮かべる?」
「ダイダラボッチ」
「それさっきわたしが言ったからだろう」
「じゃあギガンテス。タイタン。アトラス。あとサイクロプス」
「日本でもRPGゲームとかでお馴染みになった名前だな。どれもギリシャ神話に出てくる巨人だ。ギガース、ティターン、アトラース、そしてキュクロープス。いずれも大地の神ガイアを母、もしくは祖母に持ち、神としての巨人、つまり巨神といっていい存在だ。ただ、後世になるつれ怪物としての側面が伝承上に現れ、卑俗化、矮小化していった傾向があるな。北欧神話では何か知っているか」
北欧神話か。確か主神のオーディンの従者だか子分だかに有名なヤツがいたはずだ。
「ロキでしたっけ」
「お、いいぞ。ロキはオーディンに率いられたアース神族と対立した巨人族の血を引いているとされている。その巨人族の祖がユーミルと呼ばれる巨人だ。もっともアース神族も一般的な感覚からすると巨人的な存在であることに違いはないがな。ちなみにこのユーミルや中国の盤古(ばんこ)、それから古代バビロニアのティアマットなどは始原の巨人としての性質を持っている。つまり、その身体、もしくは死体から大地や海、その他の自然や自然現象が生まれたとされているんだ。多くの神話の中でそれぞれ世界の起源が語られているけど、巨人からすべてが生まれたとするパターンは『世界巨人型』と呼ばれる」
「日本だとダイダラボッチなんかがそうですか」
「いや、ダイダラボッチは山や沼を作ったという伝承が各地に残ってるけど、あれは土を盛ったのが山になったり、足跡が沼になったりしただけで、自分自身が大地なんかになったわけじゃない。デカイってことを強調するための逸話だな。日本にはこの手の世界巨人型の神話は分布していないみたいだ」
ノートには色々と調べたことを書き付けてあるらしい。ページをめくるスピードが上がってきた。
「他に、巨人と言えば?」
テストみたいだ。巨人、巨人、と頭の中で声に出していると、『世界の巨人』というフレーズが浮かんだ。
「ジャイアント馬場」
真面目に答えろと怒られるかと思ったが、師匠は嬉しそうに「それだ」と言った。
「さっきまでの巨人たちとはベクトルがまったく違うけど、これも立派な巨人だ」
僕は見えていた地雷を踏んでしまったかと、少し後悔した。師匠はかなりのプロレスマニアで、地元に興行が来た時に無理やり連れて行かれたことが何度もあった。
そういう人なので、プロレスの話をしばらく聞かされることを覚悟したが、意外にも話は逸れなかった。
「どうして馬場がデカイか知っているか。あれは下垂体線腫と言われる脳下垂体のホルモン分泌異常が原因だ。下垂体線腫の中でも成長ホルモン産生下垂体線腫と呼ばれる病変は、先端巨大症や巨人症とも呼ばれる。病気で身体が大きくなってしまうんだ。相撲取りの中でも江戸時代なんかには際立って大きな伝説的な力士がいるけど、あながち誇張とばかりも言い切れない。戦中戦後からこっちでも二メートル十センチ級の力士が何人かいるしな。あと、最近見ないから引退したのかも知れないけど、バスケの日本代表に二メートル三十センチくらいある人がいたよな。あの人もたぶんこの病気だと思う。海外だともっと凄いヤツがいるぞ。ロバート・ワドロウってアメリカ人は二十世紀前半の人だけど、二メートル七十二センチだってさ。父親と一緒に立ってる写真を見たけど、父親の頭がちょうどロバート君の股のところだったよ。二十二歳で死んでしまったけど、ずっと身長が伸び続けていたらしいから、もし生きてたらどこまでデカくなったのか想像もつかないな」
実在する巨人か。
巨人が増えていると言ったさっきの師匠の妄言が、微かに輪郭を持ち始めた。しかしそういう人が急に増えるなんてことがあるものだろうか。
「さて、巨人も色々出たようだけど、大きく括れば現時点で二パターンに分類できるな。まず第一の巨人が、ダイダラボッチやギガンテスなどが属する『伝説上の巨人』という分類だ。そして第二の巨人が馬場やロバート・ワドロウが属する『巨人症による巨人』という分類」
師匠は右手を立てて、親指と人差し指を折ってみせる。
「そして」と言いながら中指を重ねるように折る。「まだ出ていないけど、第三の巨人が、ビッグフットや雪男などが属する『UMAとしての巨人』という分類だ」
あっ、と思った。
UMAか。アンアイデンティファイド・ミステリアス・アニマル。未確認生物のことだ。そのことを失念していた。
「伝説上の巨人ほどには荒唐無稽ではないもの、巨人症患者のように確実に存在しているとも言えない。常にその実在が議論の的になる巨人たち。UMAは和製英語だから、正しくはクリプティッドと言うらしいが、ヒマラヤのイエティや日本のヒバゴン、中国の野人なんかもこれに入るな」
俄然、話が胡散臭くなってきた。師匠はやけに嬉しそうに続ける。
「UMAにも巨人は多いけど、物理的にはなくもないかも、という程度の大きさのものがほとんどだな。せいぜいが二、三メートル台というところか。ネッシーみたいな怪獣型のUMAだと相当でかいのもいるけど。UMAの巨人はほぼ現生人類の亜種という正体がほのめかされているから、十メートルとか百メートルみたいな無茶も言えないんだろう。ゴリラとかオランウータンみたいな大型の類人猿の見間違いというのが実際の話じゃないかな。でもこんな面白い話があったぞ。中国のUMAで毛人と書いてマオレンと読むヤツがいるんだが、字の如く毛むくじゃらの亜人間だ。こいつが捕獲されたあと、研究所の一室に閉じ込めらて毎日実験動物として扱われていたんだけど、ある日研究員が部屋に入るとすでに死んでしまっていた。どんな風に死んでたと思う?」
「死ぬような実験はしてなかったんですよね。病気とかじゃないですか。ヒトに近いせいでインフルエンザに感染したとか」
「おしいな。ヒトに近いからというのはいい線だ。実は首を吊って死んでいた、が正解。絶望が死因になるのは人間くらいじゃないかね。いったい彼らは何を捕獲したんだろうな」
どこで仕入れた与太話か知らないが、いかにも師匠が好きそうな話だ。
「この第三の巨人が、現代に生きているとされているものの、その実在がしかるべき研究機関等で確認されていないというものなら、第四の巨人は現代に生きていないけれど過去に確実に実在した巨人、『人類の縁戚としての巨人』だ。ギガントピテクスというのを聞いたことがないかな。百万年前から三十万年前にかけて中国やインドに生息していた大型の類人猿だ。身長でおおよそ三メートルくらい。年代的に北京原人やジャワ原人と生息期間がかぶっている。人類の直接の先祖だという説もあったみたいだけど、早々に否定されているな。他にも推定身長で十メートルを超えるような超特大の人骨が発見されたり、普通の人間の数倍の大きさの足跡の化石なんかが出土したりという眉唾モノの噂がオカルト界ではまことしやかに流れてるけど、そういうのはどちらかというと第三の、『UMAとしての巨人』の分類に入れるべきだと思う。そして……」
いい加減しゃべり疲れたのか、師匠はまた冷蔵庫に麦茶を取りに行った。そして戻ってくるや、コップを傾けながらあぐらをかいて「で、だ」と言った。
「第一の『伝説上の巨人』と第三の『UMAとしての巨人』の中間に位置するのが、第五の巨人、『妖怪としての巨人』だ。日本なら大入道や見越入道、野寺坊のような入道、坊主の類から、酒呑童子、瘤取りじいさんの話に出てくる赤鬼、青鬼などの鬼たちも巨人としての要素を持っている。海外にも一つ目鬼などの怪物譚が多々ある。肉体を持たない幽霊的な現れ方をする巨人もいるけど、それもここへ分類していいだろう。そして最後が、完全に架空の存在としてデザインされた第六の巨人、『フィクションとしての巨人』だ。まあ、あらためて説明するまでもないかな。漫画や小説に出てくるようなやつだ。レトリックとして使う音楽界の巨人、みたいな表現は無視しても構わないだろう。これでおおむねこの第一から第六までの分類にどの巨人も収まるはずだ。実際には境界があいまいなケースも多いと思うけど」
なんだかややこしくなってきた。紙に書いて整理してみる。
第一の分類が『伝説上の巨人』
第二の分類が『巨人症による巨人』
第三の分類が『UMAとしての巨人』
第四の分類が『人類の縁戚としての巨人』
第五の分類が『妖怪としての巨人』
第六の分類が『フィクションとしての巨人』……
この六つの分類を眺めながら、なんて無駄な労力を使うのだ、と溜息をついた。
「どれが今回増えた巨人なんです」
もちろん厭味だ。
師匠はそれには答えず、ふふふと意味深に笑うだけだった。これだけ巨人のことを調べ上げて、本当に何がしたいのだろう。
「小人の話をいっぱい集めたそうですけど、そっちはどうなんですか」
「小人か。小人のことはまだ調べ切れてないが、とりあえず集めた目撃例では様々なパターンがあるな。小さいおっさんってのが一番多いけど、女や子どもの姿のものもあった。出るシチュエーションも色々で、家の中とか学校、病院なんかの屋内もあればそのへんの道端でってのも多かった。心霊スポットで見た、なんてのもあったな。家族や友だち数人で同時に見たというケースもあったけど、基本的には一人で、しかも夜に見るというパターンがほとんどだった」
僕は聞きながら、まるで幽霊と同じだな、と思った。
「さっきガキどもから聞いた話の中に、小人を捕まえたってのがあった」
「ガキどもって、あの野球少年たちですか」
それでノートを持って行っていたのか。
「家の近所の溝の中にぶるぶる震えてる小さいおっさんがいたから、捕まえてカラの水筒に押し込んで蓋を閉めたんだと。凄いことしやがるな。でも、重さがカラの時と同じくなんか軽い気がして、家に帰ってから開けてみたら、中には何も入っていなかったらしい」
「最初は手で触れたのにですか」
師匠はニヤリと笑う。
「現代における小人との遭遇譚というのは、ほとんどがただ『見た』というだけのもので、それを触ってどうにかしたという話は少ない。だからそれが手で触ることができない霊的なものなのかどうか、という部分が曖昧なままだ。今回のケースは、一度は触れたのにいつの間にか不可能状態から消失している。深夜、タクシーに乗って来て、気がつくといなくなっているという幽霊の話に近い気もするけど、どうだろうか」
小人が、実体を持った存在なのかどうか、か。このあいだアスファルトへ吸い込まれていった小人を見てしまった時に、足を掴んで引っ張り出そうとしてみればよかった。
「わたしが怖いと思うのは、だ」
師匠はいやに慎重な口ぶりで顔をこちらに突き出した。
「どの話にも共通点があまり見られないということだ」
「それのどこが怖いんです」
「なにか共通の原因があれば、最近の目撃談の多さにも説明がつきそうなものだけど、例えば子どもに影響力の強いバラエティ番組で小さいおっさんの話が取り上げられた、とかな」
「それって、友だちの間の話題について行きたい子どもが作り話をする、ってことですか」
「作り話とは限らないよ。思い込みが原因でも、結果的に『見てしまう』ということはある」
なるほど。そういうこともあるのかも知れない。
「それなら、そのテレビ番組と同じシチュエーションで小さいおっさんを見た、という話ばかり増えてもいいようなものだ。しかし、さっき言ったように最近の目撃例は分類化できないほど様々で、どうも気持ちが悪い。それぞれの個人的な体験の分布が、総体で見ると、ある密度を持ってしまっている。こういうまるで意味があるかのような偶然の集積体は、わたしの経験上……」
師匠は言葉を切ってから、ゆっくりと口を開いた。
「怖い」
真剣な表情だった。こちらまで居住まいを正さなくてはならないような。
「もう少し情報が欲しい。今日はこれから用事があるけど、明日、いや明日もまずいな。じゃあ明後日だ。ちょっと手伝ってもらいたいことがあるんだ」
「いいですよ」
そう言いながら、僕は得体の知れない寒気とともに、なぜか心地よい気分の高揚を覚えていた。何をしでかすか分からないこの人が、 僕はどうしようもなく好きだった。

次の次の日、僕は昼前に師匠の家に行った。月曜日だった。すでに身支度をしていた師匠はすぐに表へ出て来て、「自転車で行こう」と言う。
そして僕の自転車の前カゴに荷物を放り込むと、自分は後輪の軸の所に足をかけた。僕の肩に乗った手のひらから一瞬、体温が移る。
「まずタカヤ総合リサーチだ」と頭越しに指が突き出される。「はいはい」と二人分の体重を運動エネルギーに変えるべく全力でペダルを踏む。
しばらく黙々と自転車をこいでいると、ふいに師匠が言った。
「なんか視線を感じる」
警戒しているような声。思わず首を回して師匠の方を見たが、キョロキョロとあたりを見回しているところだった。
僕は改めて師匠の姿を確認し、「化けた」と呟いた。
「なに。なにか言った」
「別に、なにも」
いつもはジャージとかジーンズとか、気の抜け切った格好をしていることが多く、化粧も全くしないどころか寝癖すら直さないような師匠だが、今日は紺色のビジネススーツをすっきりと着こなし、化粧も自然な感じで上品にまとめている。まるで別人だ。
そんな人が自転車で二人乗りを、それも後輪に立ち乗りをしているのだ。目立つに決まっている。
そんな僕の考えに全く思い至らない様子で、師匠はしばらく周囲を警戒し続けていた。
タカヤ総合リサーチという派手な看板のあるビルの前に到着した時も、やはり通りすがりの人にジロジロと見られ、師匠は首を傾げる。
「まあいいや、借りるもん借りてさっさと行こう」
詳しくは聞いていないが、何かを借りに来たらしい。この大きな興信所は、僕らがバイトをしている小川調査事務所の所長である小川さんが昔所属していたことがあり、その縁で今でも仕事を回してもらったりしていて、色々と付き合いのある会社だ。
中に入ると、空調の効いた広いフロアにデスクが沢山並んでいる。そのほとんどが無人だった。ハッタリで、いもしない所員の分のデスクを置いてある小川調査事務所と違い、明らかに繁盛しているがゆえの日中の所員の不在だった。それもそうだろう。興信所の職員がデスクに座ったまま出来る仕事など多くはあるまい。
「あら、また来たの」
受付の所にいた、派手な赤い服のおばさんが立ち上がってやって来る。ここの事務員の市川さんだ。いくつかの興信所を渡り歩いたこの道三十年以上のベテランで、この業界の様々な光と影を知り尽くしたというその存在は、所員からすると頼もしいのと同時に畏怖の対象ともなっていた。
らしい。
自分にはただ世話好きなおばさんにしか見えない。それは師匠がやけにこの市川さんに気に入られて、可愛がられているせいかも知れなかった。
「すいませんけど、またあのセット貸して下さい」
「いいわよ。このあいだ返してもらった時のまま、まだ片付けてなかったから」
そう言って市川さんは小さなダンボールを持って来た。それを受け取りながら師匠は「所長は?」と訊く。
「来客中。結構長くなってるみたい」
「そうですか。相変わらず忙しいみたいスね。こないだのお礼もまだだけど、よろしくお伝え下さい」
「いいのいいの、どうせこんなの使うことめったにないし」
まるで自分の経営する事務所のように振舞っている。
市川さんに挨拶をしてからその場を辞去し、外で自転車の前カゴに段ボール箱を括りつける。
「これ、自社ビルだってよ」
僕の作業を待っている間、師匠は建物を見上げて言う。「入社して、いずれ乗っ取ってやろうかな」
冗談のつもりだろうが、やりかねないので複雑な気持ちだった。あの下請けの下請けを自称する小川調査事務所のバイトの身でありながら、その実務能力は僕が見てきた限り、堂に入ったもののような気がする。隠されたものを解き明かすというのは「オカルト」の語源に言及せずとも、本人の性にあっているようだ。大手の興信所であるタカヤ総合リサーチにしても、今までみすみす逃して来た対応不能の「オバケ事案」を、現実的な契約に変えることができるのだ。
霊感が強い人は他にも沢山いるだろうが、その使い方をここまで理解している人は少ないだろう。
しかしこの人が、バイトならばまだしも社員として誰かの下で働くところなどあまり見たくなかった。
「よし、じゃあアーケードへ行け」
準備出来たと見るや、再び自転車の後輪の車軸の上に乗ってきた。
「はいはい」
颯爽とは言えないまでも頑張ってペダルをこぐ。段々とスピードが上がる。
やがてアーケードの駐輪場に到着した。ちょうど昼時だったので、平日とはいえデパートがあるアーケードの中心街のあたりは人でごった返していた。
師匠に指示されるままに段ボールの梱包を解き、近くの公衆トイレに入る。段ボールの中には、いかにもスタッフジャンパーでございます、という感じの黄色い上着と、「取材中」と書かれた緑色の腕章。そして首からかけるタイプのネームプレート。そしてバインダーと筆記用具などが入っていた。
それらを装備してトイレから出てくると、待っていた師匠はネームプレートを受け取って首にかける。
ネームプレートにはごちゃごちゃとしたデザインがされていたが、よく見ると名前しか書かれていない。それも適当につけたと思われる、でたらめな名前だ。何にでも使えるようになっているらしい。
「いいか、これは雑誌のアンケートだ。私が編集でお前がアシスタント」
ようやく説明があった。
小さい人を見たという話を不特定多数の人間から蒐集するために、架空の地方雑誌を装い、街頭アンケートを実施するということのようだ。
設定は、今度創刊する『マイタウン・ニュース』という雑誌の企画で、その中の「あなたの恐怖体験」というコーナーのための取材、というもの。
そのために用意したという小道具のアンケート用紙を見たが、住んでいる地域、年齢、今まで心霊現象に遭遇したことがあるか? それはいつごろ? などの質問項目が並んでいる。その遭遇した心霊現象を選ばせる一覧には、しっかりと小人のチェックボックスがある。
たかが街頭アンケートを装うのにこんな周到な準備をするあたりが、凝り性で無駄な労力を厭わない師匠らしい。
「いや、最初は普通の格好で、アンケートに協力お願いしまあす、ってやってたんだけど、内容が内容だから、霊感商法の掴みじゃないか、みたいに疑われてなかなか上手くいかなかったんだよ。市川さんに泣きついてこのセットを借りたら、なんとかそれっぽく見えたみたいで、そこそこ数が集まったのが前回。さらに今回はアシ付きだから完璧だ」
さらに、こんな質問をされたらこう答える、と言った細かい打ち合わせをしたあと、僕らはデパート前の雑踏の中に進出した。
「アンケートにご協力をお願いします」
師匠がよそ行きの声を張り上げる。もちろん、テレビカメラがある訳でもなし、向こうから集まってはくれないから、師匠は道行く人にバインダーに挟んだアンケート用紙と筆記用具を大胆に突き出した。
思わず受け取ってしまった人に用意した口上を述べて、爽やかな笑顔でお願いする。
最初に掛かった獲物はズボンにシャツを入れた、冴えない学生風の男。「あ、そこはチェックだけでいいですよ~」などと師匠にせかされながら、二分もかからずに回答終了。特段幽霊の類を見たことがなかったらしく、あっさり解放された。相手はまだ話したそうだったが、師匠は興味を失った顔で、雰囲気によるバリアを張ってそれを撃退する。
そんなことを繰り返し、六人目でようやく心霊現象に遭遇したという人を捕まえる。それもつい最近小さい人を見たという。若い男女のカップルで、女性の方だった。師匠はここぞとばかりに質問を被せ、細かい状況を聞き出す。
陸上かなにかをやっているらしく、まだ空も暗い早朝に住宅街でランニングをしていると、小さな足音が後ろを追いかけて来ているような気配がしたそうだ。振り返ると、誰もいない。気のせいかと思い、前を向いて走り出すと、また聞こえる。今度ははっきりした音として。怖くなって振り向くと、自分の真下、足元に、のっぺらぼうのような小さい人型の肉塊がスタスタと小走りについて来ていた。彼女は悲鳴を上げて全力で逃げ出したが、しばらくその足音がぴったりとついて来ていたそうだ。そのスタスタという一定のリズムが変わらないままで。
青ざめながらようやく語り終えた女性が、「なにか悪いものに憑かれたりしてるんでしょうか」と訊き返すと、師匠は少し考えてから答えた。
「大丈夫だと思いますよ。このアンケートやってても、身に覚えもないのにお化けを見てその後に祟られた、なんて人はいませんから」
女性は無責任なその言葉に釈然としない顔をしていたが、連れの男性にもう行こうぜと引っ張られて行った。
師匠の対応は正解だろう。まことしやかに霊とはこういうもので、などと語ったり、心配ならどこそこの霊能者を訪ねろだの、こういうお札を買えだのと言ってしまえば、まさに霊感商法の掴みだと思われて、アンケートが続け難くなる可能性があった。
しかし、僕は見ていた。その一見無責任な回答をする前に、師匠はその女性の瞳の奥を透かし見るような眼をしたのだ。その奥に潜むなにかを見つめるように。師匠は師匠なりに真摯に答えたのだろう。
「さあ次だ」
そうして師匠は淡々とアンケート集めをこなし、要領の分かってきた僕も二手に分かれて次々とアーケードの中を行く人々に声をかけ続けた。
結局二時間半くらい経った所で「疲れたからこの辺にしよう」と師匠が言い出し、僕もお役御免となった。
回収したアンケート用紙の束を数えると九十二枚あった。集計は帰ってからするのだろうが、ざっと見た限り、小人を見たという回答が少なくとも六件はあった。それもすべて最近の話だった。九十二分の六というのがどの程度意味を持つ数字なのか分からないが、心霊現象に遭遇したことがあるという人自体が恐らく全体の半分以下だったはずなので、その中での六件と考えると十分多い気がした。心霊現象と聞いて思い浮かぶのは、普通は幽霊や心霊写真、ラップ音などだろう。これほど小人の目撃が最近になって増えているというのは、一体どういうことなのか。
「おい。ぼうっとすんな。終わったらさっさと引き上げだ」
師匠にせかされて、また公衆トイレに向かう。脱ぎ終わるとそれらをすべて段ボールに押し込んだ。
その蓋をしようとした時に、ふと手が止まり変に感慨深い思いに駆られる。たかが怪談話を聞くのに、ここまでしようというモチベーションが師匠にはある。そこは今の僕には確実に欠けているところだろう。
けれどその師匠の行動を思うと、不思議と胸が高鳴る自分がいる。なにをするか、見ていたい。そう思うのだ。
「お。お疲れ。弁当食うか」
僕がトイレから出てくると、師匠は自分の荷物から銀紙に包まれたものを取り出した。おにぎりだった。
アーケードから離れ、近くにあった小さな公園に腰を下ろす。
午後二時過ぎの公園には何組かのカップルと、子どもが数人、思い思いの格好でベンチや砂場に座り込んでいる。
「でも、あれですね。確かに小人を見たって人、結構いましたね」
具が入っていなかったことに顔をしかめながらそう言うと、師匠は「そうだな」と別のことを考えているかのように生返事で、海苔を巻いただけのおにぎりを黙々と食べ続ける。
「そういえば、最後の質問はなんだったんですかね」
アンケート用紙の最後に、『最近、愛用のコップに異変がありましたか?』という奇妙な設問があった。
僕が受け持った人では、誰もはいにチェックを入れていなかった。気になったので、回収した回答用紙を数えた時にざっとその部分を見ていたが、師匠の方にもはい、と答えた人はいなかったようだ。本当は小人のことを訊きたかっただけなので、ただのスペースの穴埋めかも知れないと思ったが、それにしては内容が妙だった。
「あれは、まあ、期待してはいなかったけど、ゼロってのはな。でもこうなる気はしてたから、他のあてもあるんだ」
師匠はよく分からないことを言って一人で頷いている。
「よし、食ったら行こう。次だ」
「え、ちょっと待って下さい」
立ち上がった師匠に慌て、僕はおにぎりの残りを口に放り込む。
「次はどこなんです」
「医学部だ」
再び自転車に二人乗りをする。
僕と師匠が通う大学にはキャンパスが複数あり、医学部は同じ市内でも少し離れた場所にあった。僕らのキャンパスから自転車で二十分程度の距離だったが、そちらに行く用事もなくほとんど馴染みがない。サークルもキャンパスごとに存在していたので、それぞれでほぼ完結してしまっている。
「医学部になんの用なんです」
「助教授に知り合いがいてな。訊きたいことがあるんだ」
知り合いか。師匠はやたら大学の教授や助教授に知り合いが多い。自分のゼミの教官ならば当然だが、他学科どころか他学部にまでそのネットワークを広げている。
おっさん殺しと僕は密かに陰口を叩いているが、何かを調べるにもその道の専門家に直接聞けるのだから、正確だし時間の無駄がない。その人脈、というよりも、一介の学生の身分で他学部の分野にまでそれほど調べたいことがあるというのが、むしろ特異的なのかも知れない。
「あっちあっち」
不慣れなキャンパスの入り口を間違えかけて師匠に誘導される。
平日なので、キャンパスの中には学生の姿が多く見られた。その彼らも僕と師匠の方に無遠慮な視線を向けて来る。
「そこで止めてくれ」
指示された場所で自転車を降りる。学部棟の前だった。
「今日はたぶん大学病院の方じゃないはずだけど」
師匠は一人でさっさと歩き出した。後について行こうとしたが、玄関のところでストップがかかる。
ここで待て、と言うのである。
「一緒に行ったらまずいんですか」
「まずいな。他のことならともかく、今回はデリケートな話だから。私もどうやって口を割らせようか思案中なんだ。悪いけど一人で行った方がいい」
どんな話なのか凄く気になったが、仕方がなかった。
「その助教授はなんの専門なんです」
その問いかけに、師匠は口を大げさに動かしながら小声で言った。
「精神」
じゃあ、後で。と、師匠は学部棟の階段を上って行った。

それから三十分ほど経っただろうか。僕は学部棟の入り口周辺をうろうろしていたが、医者の卵たちが頻繁に出入りしている中、まったく見知った顔がないことに疎外感を覚え、居心地の悪い気分を味わっていた。
どいつもこいつも賢そうに見えやがる。
その学生の中から、スーツ姿の師匠の姿が見えた。
「待たせたな」
心なしか疲れたような表情をしている。
「何か収穫があったんですか」と訊くと、頷いた。「でもなかなか手強かった。あの野郎、スケベだからミニスカでも穿いてくれば良かったな」
スーツの太ももを自分の右手で叩く。
「なにかされたんですか」
「あほ」
師匠は近くにあった自動販売機に向かって歩き出す。
「何を聞いて来たんですか」
追いすがると、振り返らずに小声で答える。
「幽霊の目撃談ってのは、どうしても精神障害と密接な関係があるものだ」
淡々とした口調だった。
「精神分裂病やてんかんには幻聴、幻覚の類はつきものだし、薬物中毒による幻覚も酷いものになる。精神科医にとっては、その人が幽霊を見るかどうかってのは重要なサインなんだ。私だって、そうなのかも知れない」
その言葉に僕は立ち止まった。それが分ったのか、師匠は振り向く。
「明治期の妖怪研究の泰斗、井上円了は妖怪現象をいくつかに分類した。人間が引き起こしたものを『偽怪』、幻覚や錯覚などの心理的要因によるものを『誤怪』、自然現象によるものを『仮怪』と呼んだ。そして妖怪現象のほとんどを占めるそれらをすべて取り除き、なお残った一握りの不可解な現象を『真怪』と名付けた。わたしが思うに、幽霊の存在を信じない人間にとっては、この世の多くの体験談はすべからく、嘘か、そうでなければ錯覚、あるいは幻覚だ。それに対し、信じている人間にとっては二つのパターンがある。すなわち、すべての体験談は真実であるというもの。もう一つが一部の嘘や錯覚、そして幻覚の類を除いたものの中に、幽霊という真実が潜んでいる、というもの。ただ井上円了の場合は『真怪』をその名の通りのものとは考えていなかったけどな。彼はそれを現在の物理科学、認知科学では未だ判明されざる現象、としたまでのことだ。未科学的、というやつだな。自分の見た不可解なものがいったい何なのか、それを考える人間それぞれにそれぞれの答えがあるだろう。だけどな。たとえわたしが見ているものが個人的な幻覚だとしても、それが他者と共有できるある種の形質的同一性や、再現性、あるいは不可能性を備えているならば、それはそのこと自体に意味がある。幻覚だって? 別に幻覚でも錯覚でも何でもいいよ。とりあえず、私が死者しか知り得なかった情報をどうして知っているのか、その理由を教えてくれ」
師匠は両手を広げて、目の前にいる架空の誰かに問いかけた。そして僕の目を見てニヤリと笑う。
「さっきのセンセイは精神科医の癖に幽霊を見ちゃう人でな。それが酷くなってたから、廃業しようとしてたところを、ちょっとした経緯があって私がもっと酷い目にあわせてやったんだよ。何の目が覚めたんだか、それから吹っ切れて今ではかなり評判の良い精神科医だ。まあ、患者の気持ちが分かるってのが良い方向に向かったんだろうな。もっとも同僚の間では要注意人物らしいけど」
「何を聞いて来たんです」
二度目の僕の問いに師匠はもったいぶった顔をして、すぐには答えず、自動販売機にお金を入れた。そして清涼飲料水のボタンを押す。
「少し前にある噂を耳にしたんだ」
屈んで取り出し口に手を入れる。
「最近、大学病院の精神外来に、奇妙な症状を訴える人が増えたらしいんだ。精神病の症状は千差万別で色んな現れ方をするんだけど、それは分裂病やてんかん、あるいは脳梗塞などの器質によるものや、中毒によるもの、みたいな要因別である程度症状のパターンが分かれる。逆に言うと、症状からどの要因によるものか推測出来るわけだ。精神科医の名誉のために言い換えると、推測ではなく診断だな。ところが、今回の症状の訴えから導き出されたのは、ある特定の要因ではなく、ある地域に限定して発生しているという事実だった」
師匠は手にした缶ジュースを頬にくっつける。冷たくて気持ちが良さそうだ。
「それが小人を見る人ってことですか」
「いや、違うな。普通に考えて小人を見たというだけで、精神科にかかろうとするかな」
「でも、さっきのアンケートで最初に小人を見たって言っていた女の人みたいに怯えてたら分かりませんよ」
「彼女は怯えていても、現実にはなにも対処していなかった」
「あの人はそうでも、もっと怯える人だって……」
「まあ聞け。問題なのは、変なものを一度見た、という事実だけをもって精神科にかかろうとするかどうかということだ」
「一度見ただけ?」
「そうだ。私が蒐集した小人目撃談には、同じ人が二度以上見たという証言が一つもなかった」
それを聞いた瞬間、ハッとした。
そうだ。その後も続けて見たというケースはなかった。
「個人につく体験ではなく、場所につく現象なんだよ。ほとんどが。私が小人について、妖怪的と言ったのにはそういう意味もあった。たった一度不思議なものをみただけで精神科へ行かないといけないなら、この街の住民の何割かは通院歴があるってことになるな」
なるほど、そういうことか。確かに一度見ただけで、そこまですることはまずないだろう。精神障害とはそうした出来事の積み重ねなのだろうから。
「それに、小人を見たという人には、ある程度の地域性はあるものの、この市内でも北の外れや西の端、中には隣町に住んでいるという人もいた」
「それが地域性じゃないんですか。十分狭い範囲だと思いますけど。関東とか、他の地方では見られない現象なんでしょう」
師匠は目を閉じて首を振る。
「もっと厳密な地域性があるんだ。精神外来で似たような症状を訴えた人たちは、市内のある地域に居住している人ばかりだ。小人目撃談と関連があるのなら、むしろこちらが原因なんだ。ある特定の地域に起こる現象だからこそ、そこに住む住民か、もしくはその周辺の住民がそこを訪れた時にのみ目撃されるんだよ」
だから小人を見たという人の住んでいる地域には多少のブレがあるんだ、と師匠は確認するように言った。
胸のあたりが不安定にざわめく。
ただ小人を見た、という話を師匠は別の視点で見ている。それがなんなのか考えようとするが、僕の思考はそこで止まる。なにか恐ろしいものがその奥に潜んでいる気がして。
「いったい、どんな症状なんです。その精神外来で増えたというのは」
我知らず、声がかすれた。
明らかに小人目撃談と関連がある。なのに、小人を見る、という症状ではない。
師匠はもったいぶった表情で「すぐに分かる」とだけ言うと、缶ジュースを持ったまま自転車を止めてある方へ歩き出した。
「次は大学病院だ」
そんな気はしていたが、本当に行くつもりなのか。そんなデリケートな患者に会うなんてことが出来るのだろうか。
「そんな顔するな。実は精神外来だけじゃなく、入院患者にも同じ症状を訴える人が少ないながらもいるらしいんだ。このあたりもその限られた地域に入っているからなんだが。さすがに精神の入院病床は敷居が高いが、それ以外の病床の患者の中にもそういう訴えをする人がいてな。さっきのセンセイが診察をしてるんだ。どの病室の誰かってのを喋らせるのに骨が折れた」
そんなことを一般人に漏らして良いものだろうか。どう考えても患者のプライバシーを侵害している。
「まあ、あのセンセイも直感でなにか良くないことが起こりつつあるってのを感じてるんじゃないか。そして自分の立場では対症療法に徹するしかないということも。それでは、何か取り返しのつかないことが起こるかも知れないという、漠然とした不安があるんだよ」
師匠は僕が跨った自転車の後輪の車軸に片足をかけながら、言葉を切った。
この謎を解けるのはわたしだけだ。
沈黙の中にそう言った気がした。

「さあ、行こう」
その言葉に背中を叩かれ、発進する。大学病院まではお互い無言だった。僕は何かを考えていたような気もするし、何も考えていなかったような気もする。
大学病院の駐輪場に到着し、弾むように後ろから降りた師匠に目で問いかける。
今度はどうしても同席したかった。何が起こっているのか、僕なりに知りたかったから。
「まあ、いいだろう。一緒に来い」
はい、と言ってすぐに自転車に施錠して師匠の後に続く。
正面玄関から入ると、病院のロビーには沢山の人がいた。さすがに大学病院は大きい。インフルエンザに罹った時に行った、自分のところのキャンパスにある、とってつけたような医務室とは雲泥の差だ。
師匠は勝手知ったる他人の家、というように人の波をすいすいとかき分けてフロアの奥の方へ向う。案内板を見ると入口から一番奥に入院病棟があるらしい。
通路を抜けて、ようやくその入院病棟の待合いに到着した。
そこに見覚えのある人が待っていた。
ほんのりと桜色をしたナース服を身に付けている五十歳前後の女性。怒っているような、呆れているような表情。
「やっぱり、あなただったのね」
野村さん、だったか。
師匠が以前入院していた時にお世話になった看護婦さんらしい。その後も長くつきあいが続いており、戦時中に撮られたというある一枚の写真にまつわる事件にも巻き込まれていた。より酷い巻き込まれ方をしたのは僕の方だが。
野村さんはかつて受け持った患者という枠を超え、まるで自分の娘のように師匠のことをとても気にかけていて、師匠の方はそれを狡猾に利用しているという構図がほの見える。
「センセイ、気が利くなあ。電話してくれてたんだ。じゃあ、用件は分かるよね?」
師匠は「お願い」というように両手を合わせ、上目遣いにシナを作る。
野村さんは何か言おうとして上半身を膨らませたが、やがて風船が萎むように深い溜め息を吐くと、「ついて来なさい」とだけ言って踵を返した。
その様子から垣間見えたのは、長年の経験が降り積もって出来たかのような諦観だった。
気力が抜けたように見えたが、さすがに職業柄、足取りはキビキビとしていた。近くのエレベーターの方へ歩いて行くのを二人して追いかける。
上へ向かうボタンを押して箱が降りて来るのを待っている間、「その節はどうも」と僕からも挨拶をしたが、じろりと睨まれただけだった。
三人で乗り込むとエレベーターは静かに上昇し、七階で停止した。扉が開くと、真っ先に循環器科という案内板が目に入った。
野村さんはすぐ近くにあったナーステーションへ行き、何人かの看護婦と短い話をした後、僕らの方へ振り向いた。
「こっちへ」
そしてさっさと歩き始める。
確か看護婦長だと聞いていたが、さすがに病院でそういう姿を見ると風格というか威厳のようなものがあった。病棟の廊下を歩きながら「この入院病棟の看護婦長なんですか」と訊いてみたが、「上から下まででベッドがいくつあると思ってるの」と笑われた。
説明を聞くに、どうやら各階ごとに小児科だとか泌尿器科だとかに分かれていて、それぞれに専属のスタッフと看護婦長がいるらしい。
では、その妙な症状を訴えるという患者は、たまたま野村さんが受け持っているフロアにいたのだろうか。
僕が抱いた疑問に先回りするように師匠が耳打ちする。
「センセイが診察した、精神以外の入院病棟の患者は全部で十人。そのうち三人がここにいるはずだ」
「会わせられるのは二人だけだからね」
聞こえていたらしい野村さんが怒ったような口調で言う。「いろいろと難しい人もいるんだから。あなたはだいたい……」
その口から憤懣が出掛かったが、また肩を落としてそれが抜けて行く。
師匠は「いいよ、いいよ。会わせてくれるだけも本当にありがたいことでございます」と卑屈にお追従し、ますます野村さんの溜め息が大きくなる。
「ここ」
廊下を歩き続け、立ち止まったのは四人部屋の前だった。前二つのベッドは空いているのが見えた。
「待っていなさい」と先に野村さんが部屋に入り、奥のベッドにいる誰かと話をしているようだった。衝立でよく見えない。
やがて戻って来て、ゆっくりとした口調で言う。
「いい? 余計なことは絶対に言わないこと。何が余計かは、判断できるでしょうね」
「大丈夫。信用して。でもわたしはどんな立場って設定?」
「医学部の学生が、実習の一環で入院している患者一人一人とお話をしに来たってことにしてる」
「ありがとう」
師匠が目で合図したので僕も一緒に病室に入る。薬品の香りが入り混じった、甘ったるい廊下の匂いともまた少し違う、何と言うか独特の匂いがする。
野村さんは外で待っているようだ。
衝立の向こうにはベッドが二つあった。片方は布団がめくれており、住人は不在のようだったが、もう片方には小学校高学年か、あるいは中学一年生くらいの坊主頭の男の子が興味津々という顔でベッドの上に上半身を起こしていた。
「こんにちは」
師匠が愛想よく首を傾けると、小さな声で「こんにちは」と返事があった。
循環器科ということは心臓でも悪いのだろうか。痩せてはいたが血色は良く、重い病気のようには見えなかった。
ベッドのそばにあった丸イスに腰掛けると、師匠は男の子に「いつごろから入院しているの? 退屈?」と親しげに話しかける。
男の子は「退屈」と言って、はにかんだ。
それからしばらく入院中のことや好きな漫画のことなどを話題にして話が弾んでいたが、やがて師匠から「ここ、夜はお化けとか出るんじゃない?」という何気ない一言が零れ落ちた。隣のイスに座り、ただ二人のやりとりを聞いているだけだった僕も、師匠が本題に切り込んで行ったことが分かって緊張する。
男の子は何か重大な隠し事をこっそり告げるというような仕草で師匠の耳元に口を寄せた。
「出るよ」
「え? ほんとに?」
わざとらしく驚いて見せている。男の子は頷きながら、入院してからこれまでに見た幽霊の話を始めた。どの話も妙な臨場感があり、夜に聞いていれば相当怖かっただろうと思える内容だったが、僕が期待したようなキーワードが全く含まれていなかった。
小人に関する話が一つもなかったのだ。
師匠も一切水を向けることもなく、ただひたすら男の子の話に怖がって見せているだけだった。一体どうするつもりなのだろうと思って、やきもきしながらも口を挟めないでいると、師匠はふいに持参した荷物をあさり始めた。
そしてさっき買っていた缶ジュースを取り出す。そう言えばまだ飲んでいなかった。もう温くなっているんじゃないだろうか。
師匠はベッドの男の子からは見えない角度で缶ジュースを持ったまま、「ちょっとクイズをするけど、受けて立つ?」と訊いた。
男の子はうんいいよ、と頷く。
「じゃあ目を閉じて。今から渡すものがなんなのか当てられたらキミの勝ちだよ」
「分かった」
素直に目を閉じる。師匠は男の子の右手を取り、缶ジュースを握らせる。ほっそりした手に三百五十ミリリットルの缶はやけに大きく見えた。
「あれ~。これなんだろう」
男の子は目を閉じたまま首をかしげている。
師匠はもう笑っていない。真剣な表情で缶を見つめている。
「う~ん」と唸って考え込んだ男の子に、師匠は一言ささやいた。
「ヒントは、かん、ナントカ」
それを聞いた瞬間、男の子の顔が綻んだ。
「分かった」
そしてその口から出た答えは、僕の予想していたものとは違った。
思わず「え?」と言いそうになって、慌てて口を塞ぐ。しかし師匠は「せいか~い」と言って笑顔を作ると男の子の手から缶ジュースを素早く抜き取り、後ろ手に隠す。
男の子は目を開け、「あれ?」と言ってキョロキョロしている。師匠のジェチャーに気づいた僕はこっそりとその手から缶ジュースを受け取り、荷物の中に隠す。何故か分からないが、もう男の子に見せたくないらしい。
それは、彼がクイズの答えを間違えたことと無関係ではないだろう。
「ご褒美はこれだ。えいっ」
師匠は誤魔化すように素早く男の子のほっぺたにキスをした。
「じゃあ、もうわたしたちは行かなきゃ」
目を白黒させている男の子を置いて僕らは慌しく病室を出て行く。
廊下では野村さんが腕組みをして待っていた。
「なにか変なことしてなかったでしょうね」
「してないしてない。してないよ、な?」
「ええ。まあ」
「とにかく、本当に余計なことは言わないでよ」
野村さんは何度目かの釘を刺すと、さらに廊下の奥へ歩き始めた。僕は後ろをついて行きながら、さっきの不思議なやりとりのことを考える。その横で、師匠は視線を尖らせながら前を見据えている。
「ここよ」
病室の前に到着し、また野村さんが一人で先に入る。すぐに出てきて、「さっきと同じで医学部生ってことにしてるけど、本当に……」と言い掛けた所に、「余計なことは言いません」と師匠が言葉を繋ぐ。そして待ちきれないと言うように病室の中へ消えて行く。
僕もすぐに後を追う。
今度も四人部屋だったが、手前の二つのベッドには老人がそれぞれ布団を被って寝ていた。その奥にはやはり衝立があり、回り込むと、女の子がちょうどベッドから身体を起こすところだった。
「あ、寝ててもいいよ」
師匠が慌てて手を振ると、「大丈夫です」と静かな声が返って来た。
向かいのベッドは空だった。今度は住人がいるような気配はない。僕の視線に気がついたのか、女の子は「隣の人、昨日退院しちゃった」と言って笑った。
さっきの男の子よりは少し年上だろうか。やはり痩せていて顔や服の袖から出ている手がやけに白い。
「どんな人だったの?」
丸イスを引き寄せながら師匠が口を開いた。
「う~ん。お母さんくらいの年の人」
「そうなんだ」
そんな会話から始まり、また当たり障りのないやりとりがしばらく続いた。僕はすべて師匠に任せきって、邪魔にならない程度に相槌だけを打っている。
「病院って、お化けが出るっていう人いるけど、どうなのかな」
「あ、私見たよ」
さっきの再現のように女の子が体験談を語る。しかしさっきの男の子と同じ話は一つもなかった。
横で聞いているだけの僕には師匠が何を考えているのか分からなかった。
「ちょっとクイズを出すけど、いい?」
「いいですけど」
「今から渡すものが何なのか、目を閉じたまま当ててみてね」
それを聞いた女の子は少し緊張したような顔をする。何かの検査だと思ったのだろうか。
それでも「どうぞ」と言って目を閉じたので師匠は荷物からまた缶ジュースを取り出した。
女の子の右手を誘導して、それを握らせる。
「どう? 何か分かる?」
缶ジュースを右手で握ったまま女の子は考え込む。分かりそうなものなのに、どうしてだろう。
「ヒントは、かん、ナントカ、だよ」
師匠はささやく。さっきと同じ言葉。これでもう分かるはずだ。
分かるはずなのに。
女の子は恐る恐るという様子で、目を閉じたままぽつりと言った。
「かんでんち」
それを聞いた瞬間、鳥肌が立った。
頭が事態を理解する前に、直感が告げたのだ。
乾電池。
さっきの男の子と同じ答え。偶然じゃない。絶対に。
分かった。分かってしまった。一体何が分かったのか、その頭の中の嵐が形になる前に師匠が言った。
「正解だよ。じゃあ今度は目を閉じたまま耳を塞いでみて」
そっと缶ジュースを右手から抜き取る。
そして言われるがままに両手で耳を塞いだ女の子から視線を逸らし、師匠は僕の顔を見る。その瞳が爛々と輝いている。
「これが最近になって急に現れた、精神科にかかる人が訴える奇妙な症状。触覚の異常により、物の大きさを誤認するという事例。目を開けている時には感じない。つまり視覚により補正される時や、あるいは事前にそれが何なのか認知している時には現れないが、それらを遮断されるとたちまちに現れる不可思議な現象。小さい。小さい。小さい。何もかもが、実際の大きさよりも小さく感じられてしまう。缶ジュースを握っているのに、それが乾電池に思えてしまうくらいに」
僕の目を見つめたまま、師匠はささやく。
「わたしは巨人を六つに分類したな。
 第一の分類は『伝説上の巨人』
 第二の分類は『巨人症による巨人』
 第三の分類は『UMAとしての巨人』
 第四の分類は『人類の縁戚としての巨人』
 第五の分類は『妖怪としての巨人』
 第六の分類は『フィクションとしての巨人』
 …………」
言葉を切って、師匠は手のひらで恭しく女の子を指し示す。
「彼女たちこそが、そのどれにも当てはまらない、第七の巨人」
僕は師匠の言葉のそのわずかな隙間の中で息を飲む。

「Giant sensory syndrome, 巨人感覚症候群の発症者だよ」

女の子は目を閉じて耳を塞いでいる。
師匠は彼女に視線を向けもせずに僕を試すように見ている。
巨人感覚症候群…… ジャイアント・センサリー・シンドロームだって?
「ちなみにわたしがつけた名前だ。捻りがないところが気に入っている」
満足げにそう言った時、足音が聞こえて振り向くと野村さんが病室に入って来た。
「なにをしているの」
声が不審げだ。
女の子に耳を塞がせているのは、はたから見るとやり過ぎだったかも知れない。
「いや、もう終わったよ」
師匠は慌てたように立ち上がった。何ごとかと女の子も目を開ける。
「ごめんね、急に用事が出来ちゃって。もう行かなきゃ」
師匠は手を振ると、ベッドに背を向けた。僕も急いで後に続く。
「待ちなさい」
追いすがってくる野村さんに廊下で捕まった。
「あれほど言ったのに何をしているの、あなたは」
かなり怒っている。
「何もしてないよ。余計なことも言ってないよ、な?」
「ええ、まあ」
言い訳はあまり通用せず、それから二人してギュウギュウに絞られた。
やがて他の看護婦の視線が気になったのか、野村さんは来た時に乗ったエレベーターに僕らを押し込んだ。そして自分も乗り込んで一階のボタンを押す。
「だいたい、いつもいつもあなたは……」
僕は際限なく続く説教に、野村さんに普段どれだけ迷惑をかけてるんだこの人は、と唖然としていた。
さすがにシュンとしてうなだれた師匠に少し声のトーンが落ちる。
「そう言えばあなた、最近また検査をさぼってるでしょう。真下先生も心配してるんだから、ちゃんと受診しなさい」
野村さんがそう言った瞬間、到着を告げる音と共にエレベーターのドアが開いた。一階に戻ったのだ。
師匠がバネのように顔を跳ね上げる。
そしてエレベーターから我先に出ると、くるりと向き直るや顔を突き出して舌を伸ばした。
「い・や・だ。べろべろべろ~ん」
そして逃げた。
走って。
「ちょっと、待って」
僕も一緒に逃げ出す。
野村さんが後ろから何か大きな声で怒鳴っているが、良く聞こえなかった。「院内を走るな」だろうか。
病院のスタッフや来院の人に何度かぶつかりそうになりながらも、僕らは無事に正面玄関を抜け出した。
少し胸が苦しい。ハアハアと息をつきながら横目で見ると、師匠もこちらを見て笑った。僕もつられて笑う。
それから追っ手が来る前にと、すぐに自転車に乗り、家の方へ向けて出発する。夏なのでまだ日は高いが、街には夕方がひっそりと近づいていた。空の色で分かる。
五分ほど走ってから、街なかで師匠は降りた。僕も自転車を降りて並んで歩く。そして歩きながら考えをまとめた。
巨人感覚症候群。まるで自分が大きくなってしまったかのような感覚を生じている、他者からはけっして目に見ることができない巨人たち。
「あの子たちは、目を開けていると普通なんですか」
「そうだな。視覚や知識など、本来そうあるべき大きさを補正できる手段があるならその触覚の異常は起こらないみたいだ。いつもつけている下着なんかも視覚には入っていないから大きく感じられそうだけど、それは自分がつけているものがどんなものなのか知っているから大丈夫なんだな。あ、そうか。愛用のコップって書いたのはまずかったか」
アンケートの最後の設問のことらしい。
あれで巨人感覚症候群に罹患しているかどうか調べるつもりだったのか。手に持った時にコップが異様に小さく感じられると? どちらにしてもピンと来る人には通じただろうから、今日アンケートに回答してくれた人の中にはいなかったに違いない。
「でもな。視覚や知識で補正できるって言っても、病状の初期段階に過ぎないからなのかも知れない」
ぞくりとした。
足が止まりかける。周囲には色々な人が所狭しと歩いている。駅前の大通りだった。
「噂を聞いた時からわたしはそれを懸念していた。何か恐ろしいことが起こるなら、そこから先じゃないかと。さっきセンセイに確認したんだ。精神病床の入院患者の中には、実際に『すべてが小さく見える』と訴える人が、わずかながらいるらしい」
まさか。と思った。それが小人の目撃談と関係しているのか。
「最初に、巨人が増えているって言ってたのは、このことですか」
冗談だと言っていたのが、まるきり真実をついていたというのか。まさか、本当に彼らは症状が進むことで触覚や視覚だけでなく、実際に巨人化して行くとでも言うのだろうか。
師匠は笑い出した。
「おいおい。それこそフィクションだよ。そんな無茶苦茶なこと起こるわけないだろ。まあ二メートル半ばくらいまでなら成長ホルモンの過剰分泌による巨人症でも起こりうるから、一概には言えないが。でもそんな視覚にまで症状が進行している人自体もまだごく少数だし、それに彼らがその目で他の人間を見て、小さい人がいる、と思ったとしても、それが今街じゅうで湧き出している小人目撃談のオリジナルになりえるかな」
そう言われてみると確かにおかしい。
そこまで病状が進んだ人が、人口に膾炙する噂を流す環境におかれているだろうか。精神病床に入院中ならもちろんそんなことはないだろうし、入院していなくとも、これは人間が小さく見えるどころの話ではないのだ。すべてが小さく見えるのなら、そんなことを言う人の話を周囲がまともにとりあってくれるだろうか。
それに僕自身が否定しているのだ。小人の話を普通の学生の友だちから聞いたのだから。彼らに取り立てておかしなところはなかった。特に二人目の女の子の話は、小人が牛乳配達の箱の中にいた、というものだった。箱は普通なのに、人だけが小さく見えている。
まるで噛み合わない。
では一体どういうことだ。巨人感覚症候群と、小人目撃談。嵌りそうで嵌らないパズルのピースだ。
「今日のアンケートで小人を見たという人たちの共通点に気づいたか」
「共通点、ですか」
少し考えたが、まだ集計していないのではっきり思い出せない。
「小人を見たという人たちは全員、今までに体験した心霊現象の項目で小人以外にもチェックを入れていた」
「えっ。そうでしたっけ」
そう言われればそうだったかも知れない。小人の話だけ詳しく訊いたので他の話には食いつかなかったけれど。
「全員、幽霊を見ていたな」
そうか。僕もそうだ。
足元の小石を軽く蹴り、師匠は自分のペースで歩き続ける。僕はその横に並んで人の波を避けている。
「今日の巨人感覚症候群の発症者二人も幽霊を見ていた。この符合の意味するところが分かるかな」
かぶりを振る。しかし頭の中にはぼんやりした答えのようなものが浮かびつつあった。
「私は巨人感覚症候群の発生原因には、霊感が関係していると考えている。ある地域に限定して起こっているという部分で、その原因がある程度は絞られてくるだろうが、細菌やウイルスの飛沫感染や、なんらかの公害、そして特定の多層建築物を媒介とした高周波による脳への影響など、どれもしっくり来ないんだ。それは私自身感じているある感覚の存在のせいだ」
「ある感覚?」
オウム返しに訊く。
「衝動。叫び。そうだ。咆哮のようなもの。説明しにくいが、耳には聞こえず、幻聴ですらない何かそういうものが、頭の中を通り抜けている気がする。今も」
思わず耳を澄ましたが、ざわざわした雑踏の音しか聞こえない。
「霊感の強い人間はこういうものに影響されやすい。そしてその中でも、普段から心の病を抱えている者や、入院中で心身が弱っている者はそれが如実に現れるんじゃないだろうか」
「それが巨人感覚症候群だと?」
言葉とは裏腹に、師匠は確信めいた表情で頷いた。
「だけどまだ分からないことが多すぎる。何故自分が巨人だと感じてしまうのか。それが進行した時に何が起こるのか。その衝動、咆哮の主体は一体何なのか…… でも現時点で推測できることが一つある」
「それはなんですか」
ドキドキする。師匠と出会ってから何度味わったか分からない高揚感。
「それはね」と師匠は僕の方を向いて言った。「その衝動、咆哮に影響を受けているのはそういう弱い人間だけではないんじゃないかってこと。浮遊する霊体。地縛される魂。人間の死後に現れるそうした存在も、影響を受けうると考えている。幽霊に、その者が生前信じていた宗派の経文や祝詞を唱えると苦しがったり嫌がったりする。これはもちろん『幽霊はこういうものに弱い』という生前の記憶がそうさせるんだ。そして人間が怖がるものを同じように怖がるというパターンも多い。犬がその代表か。そんな幽霊にこの得体の知れない存在からの咆哮はどう影響されるのか」
「同じ、なんですか」
「そうだ。人間と同じように、この街に存在する幽霊も、その一部がこの巨人感覚症候群と同じ症状に陥っている」
空はまだ高く、夕闇にはまだ時間がある。アスファルトは日中の熱をこもらせて、分厚い空気を足元から立ちのぼらせている。
なのに、どこからともなく寒気がひたひたと押し寄せて来ている気がした。
「霊体たちが、巨人化をするとでも言うんですか」
師匠は「違う」と首を振った。
「お前は知っているはずだ。霊はあるべき姿で現れると。若く美しいころの姿で現れる女性の霊。その後に殺された時の血まみれの姿で現れる場合。生命活動が停止し、腐乱した状態で現れる場合。腐敗が進み、骸骨となった姿で現れる場合。どれもありうる。選ぶのは霊自身だ。己のあるべき姿を。生きている人間のようにはこの物質的世界に束縛されないからこそ、そんなことが起こる。中には生前にはなかった姿へと変貌を遂げる場合もある。四肢の増減や五体の変形。動植物との融合。怪物化。様々なケースがある。そんな霊が、巨人感覚を得てしまったらどうなるか。想像してみるといい。己の周囲にあるものすべてが小さい。小さい。小さい。まるで違う世界にいるようだ。己が望んだわけでもないのに。その時、あるべき姿はなに?」
寒気が。意思を持ったように体中を這い回る。
師匠が僕を試すように見つめている。
「あるべき姿は…… その小さな世界に適合するための身体」
僕は震える声で呟く。その後を師匠が継ぐ。
「そうだ。そのためにみんな小さくなる。彼らはみな、巨人であるがゆえに、小人なんだ」
師匠と僕の間にあるわずかな空間を、見ず知らずの人々が通り抜けて行く。僕は息を止めてその瞬間を目に焼き付ける。
向かい合った師匠が真っ直ぐにこちらを見ている。
小人を見る人が増えているということは、巨人が増えているということだ。
自ら冗談だと苦笑した師匠の言葉が頭の中に蘇る。
冗談だって?
ただの方便だ。師匠は始めから分かっていたに違いない。
アンケートで小人を見たと答えた人たちが、全員幽霊を見たことがあったということもこれで説明がつく。彼らは、そしてこの僕も、ただ幽霊を見ていただけだったのだ。巨人であるかのような感覚を得てしまったがために、小人になってしまった霊体を。だから目撃例がパターン化されない。幽霊の現れ方など、それこそ千差万別だからだ。
師匠は講義終了とでも言いたげな表情を浮かべ、再び前を向くと歩き始める。僕はそれを呆然と見ている。
その周りを沢山の人々が行き交っている。誰も僕らのことを見ていない。スーツ姿の師匠が自転車の後輪に立ち乗りしていた時にあれほど集まっていた視線が、今はもうない。女が一人ただ歩いているだけでは、大通りの中の取るに足りない景色の一つに過ぎないとでも言うように。
けれど僕は雑踏の中で立ち止まり、自転車のハンドルを支えたまま、彼女の後ろ姿を見つめている。
どうしてみんなは見ていないのだろう。僕と同じように。
信じられなかったのだ。
この人を知らないで、平気でいられる世界が。
 
(了)

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ウニさんのPixiv/師匠シリーズ「巨人の研究」より転載させていただきました。

 
 

『師匠シリーズ』作者、ウニさんについて

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ウニさんの本 書籍 / コミック 作画:片山 愁さん

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