※ウニさんの作品はPixiv及び「怖い話まとめブログ」さまより、
Youtubeの動画は彼岸さんのUPされている136さんの朗読をお借りしています。
耳で捉えた物語を目で文章を追うことで、さらにイメージは大きく膨らんでいくのではないでしょうか。
[h2vr]
「未」
師匠から聞いた話だ。
匂いの記憶というものは不思議なものだ。
すっかり忘れていた過去が、ふとした時に嗅いだ懐かしい匂いにいざなわれて、鮮やかに蘇ることがある。
例えば幼いころ、僕の家の近所には大きな工場があり、そのそばを通る時に嗅いだなんとも言えない化学物質の匂いがそうだ。家を離れ、大学のある街に移り住んでからも、どこかの工場で同じものを精製しているのか、時おり良く似た匂いを嗅ぐことがあった。そんな時にはただ思い出すよりも、ずっと身体の奥深くに染み込むような郷愁に襲われる。次の角を曲がれば、子どものころに歩いたあの道に通じているのではないか。そんな気がするのだ。
そんな僕にとって一番思い入れのある匂いの記憶は、石鹸の匂いだ。
どこにでも売っているごく普通の石鹸。その清潔な匂いを嗅ぐたびに、今はもういないあの人のことを思い出す。
身体を動かすのが好きで、山に登ったり街じゅうを自転車で走ったり、いつも自分のことや他人のことで駆けずり回っていたその人は、きっと健康的な汗の匂いを纏っていたに違いない。けれど、僕の記憶の中ではどういうわけかいつも石鹸の匂いと強く結びついている。
その人がこの世を去った後、その空き部屋となったアパートの一室を僕が借りることになった。
殺風景な部屋に自分の荷物をすべて運び込んで梱包を解き、一つ一つあるべき場所に配置していった。
その作業もひと段落し、埃で汚れた手を洗おうと流し台の蛇口を捻った。コンコンコンという音が水道管の中から響き、数秒から十秒程度経ってからようやく水が迸る。
古い水道管のせいなのか、その人がいたころからそうだった。
その人はよく僕に手料理を作ってくれた。そう言うと妙に色気があるように聞こえるが、実際は『同じ釜の飯』という方が近い。兄弟か、あるいは親しい仲間のような関係。それが望ましいかどうかは別として。
その人は台所に立つとまず真っ先に手を洗った。石鹸で入念に。だから食事どきのその人は、いつもほのかな石鹸の匂いを纏っていた。
今でも爽やかなその匂いを嗅ぐと、あのころのことが脳裏に蘇る。痛みや焦り、歓喜や悲嘆。絶望と祈り。僕の青春のすべてが。
蛇口を捻り、水が出るまでのわずかな時間。その人は乾いた石鹸を両手で挟み、そっと擦り合わせていた。その小さな音。それを僕は背中で聞くともなしに聞いている。ささやかなひと時。戻れない過去はなぜこんなに優しいのだろう。
その人がいない部屋で、僕は一人蛇口から落ちていく水を見つめている。手には無意識に握った石鹸。指の間から滔々と水は流れ落ちる。ほのかに立ち上る涼しげな匂い。
僕は蘇る記憶の流れに、しばし身を任せる。
◇◇◇
寒い日だった。昼過ぎから僕はある使命を帯びてオカルト道の師匠が住むアパートに乗り込んだ。
十二月も半ばを過ぎ、街じゅうを、いや目に映る全てを一色に、いや、二色に染めているイベントが目前に迫っていた。赤と白だ。なにもかもが。それに伴い、僕にも焦りと若干の期待が入り混じった感情が押し寄せていた。
ドアをノックすると赤でも白でもなく、青い半纏を来た師匠が玄関口に現れて、じっと僕のことを見つめる。
いや、見つめているのは僕の手元だ。つまりスーパーの袋である。
「コロッケが大量に安売りしてたので、一緒にどうですか」と言うと、入れとばかりに顎を軽く振る。
部屋に上がらせてもらうと、炬燵布団に人型の空洞が出来ている。その向かいに腰を下ろして足を入れ、袋からコロッケのパックを取り出す。
師匠は台所から小ぶりの鍋を持って来て、「甘酒だ」と炬燵のテーブルの上に置いた。鍋の中には白くてどろどろしたものがほのかに湯気を立てている。生姜の香りがした。お椀にとりわけてくれたそれを、コロッケを齧る合間に啜る。
ここ数日でめっきり冬らしくなったものだ。朝方、路上に止まっていた車のフロントガラスに霜が降りていたことを思い出す。
「こっちが普通ので、こっちがカボチャ、こっちがクリームコロッケです」
カボチャコロッケに手を伸ばす師匠を横目に、床に散らばっている雑誌を手に取り、見るともなしにパラパラとページを捲る。
クリスマス、どうするんですか?
それをなかなか口に出せないまま、特に会話らしい会話もなく穏やかな時間が過ぎて行く。
コロッケを三つ平らげた師匠は甘酒を片付け、ふんふんと鼻歌を奏でながらがテーブルに向かって何かを書き始めた。気になったので首を伸ばして覗き込むと、年賀状のようだ。
万年筆で書かれた新年の挨拶の横にかわいらしいヘビの絵が見えた。来年は巳年だっただろうかと一瞬考えたが、そんなはずはなかった。
「そのヘビはなんですか」
「うん? この子はカナヘビちゃんだ」
顔を上げず、師匠はペンを動かしながら答える。
どうやら干支を表す動物ではなく、自分の署名代わりのキャラクターらしい。加奈子という名前と掛けているのか。
そう言えばバイト先の興信所でも、彼女が作成した報告書の端にこんなヘビの絵を見たことがあった気がする。
にっこり笑ったヘビが、二又に分かれた舌をチロチロさせながら三重にトグロを巻いている絵だ。
「カナヘビちゃんですか」
「そう」
一枚書き終えて、師匠は次の宛名書きに移る。
「でもカナヘビって、トカゲの仲間じゃなかったですか」ふと沸いた疑問を口にすると、「え?」と師匠が始めて顔を上げた。
「ヘビだろう」
「いや、ヘビって付いてますけど、確かトカゲだったような…… 足もあったはずですよ」
うろ覚えだが、なんとなく自信があったので言い張ってみる。師匠は納得いなかい表情で自分の書いた絵を見つめている。
なんだか「キクラゲ」はクラゲなのか海草なのかで言い争いをしたことを思い出してしまった。
その時は勝者のいない戦いだったが、今度はどうだろうか。
「カナヘビがトカゲぇ?」と鼻で笑いながら呟く師匠に、僕は「確かめてみましょうか」と言って立ち上がる。
玄関に向かい、靴をつっかけて外に出ると、冷たい風が顔に吹き付けてきた。身体を縮めて小走りにアパートの右隣の部屋の前まで行く。
ドアをノックすると、「はい」という声とともに部屋の主が顔を覗かせる。
卵のようにつるんとした顔に、細い目と低い鼻、そして薄い唇が乗っかっている。小山だか中山だか大山だか忘れたが、確かそんな感じの名前の人だった。
「どうしました」
「百科事典を貸してくれませんか」
この師匠のアパートの隣人は普段なにをしている人なのかさっぱり分からないが、しばしば師匠の部屋に食べ物をたかりに来たりしていた。師匠は基本的に追い返しにかかるのだが、当人はいたって平然と師匠の容姿を誉めそやし、口先三寸で丸め込んで最終的にただでさえ乏しい食料のその何分の一かをせしめるという奇妙な人物であった。
僕は以前その彼の部屋に上げてもらった時に、百科事典が詰め込まれた棚があったことを覚えていた。
「かまいませんが、アカサタナで言うと、どこをご所望ですか」
「カ、の所をお願いします」
そう言って売れ残りのコロッケを差し出す。
「しばしお待ちを」
そうして首尾よく百科事典を借り受け、師匠の部屋に戻ると、さっそくカナヘビのことが出ているページを開いて見せた。
小さな写真が付いている。その姿からして一目瞭然にトカゲである。説明文を読むと「有鱗目トカゲ亜目トカゲ下目カナヘビ科」とある。よくは分からないが、ようするにトカゲのようだ。
写真を見る限り、普通のトカゲと比べると鱗が妙にカサカサとして油気がない印象だった。だがもちろん手足はあるし、ヘビとは明らかに違う。
「トカゲじゃないですか」
「……」
師匠は何ごとか反論しようとしたようだが、百科事典の背表紙を見て、それが有名な出版社のものであることを確認するや、諦めたように嘆息した。
「はいはい。わたしが間違えておりました。あほでした。これで良いのでございましょう」
そう言って自分の描いたヘビの絵に申し訳程度の小さな足を四本書き添えた。トグロを巻いたままなのでバランスが非常に悪い。というか、手などは一見二本並んでいるのだが、よく見るとトグロの別の段から出ている。冒涜的な生物だ。
その絵に対する突っ込みを入れる前に、ふと思った。
百科事典の記事なのに出版社次第では何か言い訳するつもりだったのかこの人は。
拗ねた様にうつむいて、年賀状の続きを書き始めたのを見て僕は腰を上げ、百科事典を返しに行った。
ドアを叩くと、小村だか中村だか大村だかという名前の隣人がにゅっと顔を出す。
「コロッケの何をお調べになったのです」
「いえ、確かにカ行ではありますが、コロッケを調べたんじゃありません」
「そうですか。カボチャコロッケもクリームコロッケもカ行ですから私はてっきり。そうですか。そう言えば昨日お隣を訪ねて来られた男性のお名前もカ行から始まったような」
「もっといりますか、コロッケ」
「あ、すみません。こんなに」
「で、その男とは」
「最近またよく見るようになった方ですよ。あの背の高い」
やつか。
暗鬱な気分になった。状況をもう少し詳しく聞いたが、その気分に拍車をかけただけだった。
「あげます」
「え。全部。すみませんねどうも。これで年を越せそうです」
卵のような頭を丁寧に下げるのを呆然と見下ろしてから師匠の部屋に戻る。
その本人は万年筆の先をペロリと舐めながら真面目くさった顔でテーブルに向かっていた。
僕は身体にこびり付いた冷気を振り払うように玄関口で服の裾を直すと、うっそりとコタツに入った。
「クリスマス、どうするんですか」
なんだかどうでも良くなってきて、本題を口にした。
「は?」
師匠は頭がすっかり正月へ飛んでいたのか、その単語の意味が一瞬理解できないような表情をしたが、すぐに笑い始めた。
「おまえ、クリスマスなんか信じているのか」
小馬鹿にしたような声。
いや、まて。なにかおかしい。
「サンタクロースならともかく、クリスマスを信じるっていうその概念がおかしくないですか」
まさか、サンタどころかクリスマスというイベント自体を迷信だと親に吹き込まれてきた可哀想な子だったのか、師匠は。
「ただの言葉の綾だ」
そう言ってまだ笑っている。なんだかクリスマスを前に焦っているこちらの腹の内を読まれたような気がして、恥ずかしくなった。
「そう言えば、クリスマスにまつわる怪談話があるよ」
「どんな話ですか」
「実話なんだけど」
と言って師匠はコタツの中でゴソゴソ動いていたかと思うと、脱いだばかりの靴下を床に置いた。
「おととしだったか、その前だったか、クリスマスイブに一人でいたんだよ。この部屋に。やけに寒い日だったな。サンタでも来ねえかなあと思って、枕元に靴下を置いといたんだ。こんな風に。寝る前にちゃんと戸締りして、よし、これで朝起きて靴下になにか入ってたら、サンタ確定だと。もちろん冗談のつもりだ。まあイベントごとだし、気分の問題だから。で、寝たわけ」
え…… そこから怪談になるって、どういうことだ。まさか。
ドキドキしながら聞いていると、師匠は床に置いた靴下を手に取る。
「朝起きたら、入ってるんだよ」
「うそでしょう」
急に鳥肌が立った。思わず声が大きくなる。
「いや、本当だ。入ってたんだよ、わたしの足が」
師匠は真剣な表情のまま口元を押さえる仕草をする。
力が抜けた。
「寒かったせいかな。普段は冬でも靴下履かずに寝るから、寝ぼけて履いちゃったらしい」
からかわれたと知って、腹が立ってきた。もういいです、と言ってコタツに入ったまま後ろに倒れこむ。
「いや、わたしからしたら結構怖かったんだって」と言い訳をしていたが、やがて静かになった。
再び万年筆が紙の上を走る音。
しばしの間考えごとをした後、天井を見ながらぼんやりと言った。
「一昨年はそれとして、今年のイブはどうなんです」
ペン先の音が止まった。
二回訊いたのだ。いくらこの人でもどういう意味で訊いているのか分かっただろう。
顔は冷たく。足は温かい。
わずかな沈黙の後で、「お泊り」という単語が出てきた。
「あ、違った。お泊り」
二回言った。
その二回目は一音節ごとに区切り、しかもくねくねした動きがついていた。
「そうですか」
もういいや。帰ろう。
そう思った時、師匠が意外なことを言った。
「おまえも来るか」
「ハァ?」
思わず跳ね起きた。どうしてそうなるのだ。
僕の動きに驚いたのか、師匠の身体がビクリと反応する。
「いや、そんなに良い所じゃないぞ。鄙びた温泉宿だ」
「行きます」と取り合えず即答しておいてから疑問を口にする。「なんでクリスマスイブに温泉なんですか」
それには深い事情があってだな。と師匠がもったいぶりながら話したところを要約すると、要するにバイトだった。
小川調査事務所という名前の興信所で師匠は調査員のバイトをしているのだが、中でもオカルト絡みの妙な依頼を専門に請け負っていた。たった一人の正職員にして兼所長の小川さんにしても、そうした怪しげな依頼を積極的に求めているわけではないのだが、今までに師匠が携わったケースの関係者からの口コミで、日増しにそんな仕事が増えつつあった。
そしてそんな口コミの大半を担っていると思われるお婆さんがいるらしいのだが、その人の紹介でこの年の瀬に転がり込んできた依頼だった。
「婆さんが贔屓にしてる馴染みの宿ということだけど、どうも出るらしいんだな」
「出る、とは、あれですか」
「うん。これが」
師匠は両手首を引き付けてから胸の前で折った。目を細めて、にゅっと舌も出す。
「そんなに大きな旅館じゃないみたいだけど、毎年正月をそこで過ごすお得意様が何組かいるらしくてな。その前に、つまり年内にどうにかしたいんだと」
「お祓いとかしても駄目だったんでしょうか」
「ああ。駄目だったらしい。そのあたりがちょっと訳ありみたいでな。詳しくはまだ聞いてないんだけど」
僕は指を折ってみた。年末までそれほど猶予がない。だからクリスマスに泊り込みで仕事が入っているのか。
でもどうして僕にあらかじめその話が来なかったのだろう。零細興信所である小川調査事務所のバイトの助手という立派な肩書きがあるというのに。
「さすがに十代の若者にクリスマスに仕事しろとは言えないからなあ」
「そんな……」
あなたと一緒にいなくて、なんのクリスマスか。とはさすがに言えなかった。
「じゃあ助手を一人連れて行くって言っとくから」
師匠はそれだけを告げるとまた年賀状を書く作業に戻った。僕はそれを見て「そろそろ帰ります」と立ち上がる。
クリスマスイブに師匠と二人、田舎の温泉宿でお化け退治か。
真冬だというのに、身体の芯に火が入ったような感じがした。僕は半ば無意識に小さく拳を握る。それを見た師匠が、「やる気だな。よろしく頼むよ」と気の抜けたような声で言った。
◇◇◇
大学一回生の冬。僕は北へ向かう電車に乗っていた。
十二月二十四日。クリスマスイブのことだ。
零細興信所である小川調査事務所に持ち込まれた奇妙な依頼を引き受けるために、バイトの加奈子さんとその助手の僕という、つましい身分の二人で、いつになく遠出をすることになったのだ。
市内から出発するころにはかなり込んでいた車内も、大きな駅を通り過ぎるたびに少しずつ人が減ってきた。
はじめはゴトゴトと揺れる電車の二人掛けの席に並んで腰掛け、荷物をそれぞれ膝に抱えていたのだが、閑散としてきたのを見計らい、僕は空いた向かいの席に移動して荷物を脇に置いた。
僕をこの旅に駆り出した張本人であり、オカルト道の師匠でもある加奈子さんはさっきから一体いくつ目になるのか知れないみかんの皮を真剣な表情で剥いている。
その横では窓のサッシに敷いたティッシュの上に剥かれた皮が小さな山を作っている。
「イブに温泉かぁ」
頬杖をつき、特に感情を込めずに僕がそう呟くと、その師匠はみかんの表面の白い繊維を千切れないように慎重に剥がしながら顔を上げた。
「イブってのは日没から深夜二十四時までのことだ。二十四日の昼間はクリスマスイブじゃない」
「本当ですか」
「百科事典で調べてみるか」
師匠はそう言って笑った。
今日は天気がいい。
それでも山肌や、畑。水路。あぜ道。送電線。そして瓦屋根。流れるように過ぎ去っていく景色には、寒々とした冬の色合いが濃い。
今回の依頼は、以前オカルトじみた事件を解決してもらって以来、師匠のシンパになってしまったという、ある老婦人の口利きで転がり込んできたものだった。
北の町の市街地から離れた温泉旅館で、このところ幽霊の目撃談が相次ぎ、営業に支障がでているというのだ。
そんなものは、仮に本物だとしても、いや、ガセだったとしても、どちらにせよ地元の神社やお寺にお願いして祓ってもらえば済む話だろう。ところがそれが全く効果がないらしいのだ。それも目撃される幽霊というのが問題だった。
「神主?」
「そう。神主の格好してるんだと」
師匠はみかんにこびりついた白い繊維をすべて取り去ってなお、まだ残っていないかと、じろじろと見回しながら答えた。
「小さな温泉街だ。そのあたりにあるのも若宮神社っていう一社だけ。歴史はあるみたいで、先祖代々一族で神主を引き継いできてるんだけど……」
「その神社のご先祖様が化けて出てるんですか。温泉旅館に」
「そこなんだよ。理由がわからないんだ。場所も歩いて四、五十分くらいは離れてるらしいし、どうしてわざわざ旅館の方へ出てくるのか」
「なにか因縁があるんでしょうかね」
「それが旅館の方にも、神社の方にも全然心当たりがないらしい。責任を感じて今の宮司がかなり本格的にお祓いをやったらしいんだけど、効果なし。依然として夜中に旅館の中を狩衣(かりぎぬ)に烏帽子、袴姿の幽霊がさまよってるんだとさ」
神職の服装ってのは主に三種類に分けられる、と言いながら師匠はティッシュの中から手ごろなみかんの皮を摘み出した。
「まず、正装。新嘗祭とかの大祭で着る衣冠(いかん)だな。次に礼装。紀元祭とかの中祭で着る斎服(さいふく)だ。これも頭は冠。最後に小祭、恒例式とか日ごろのお勤めで着る常装。これが狩衣に烏帽子、袴ってわけ」
師匠が順番に指をさす三つ並べられたみかんの皮をどれほど見つめてもそんな違いを感じ取れない。
「まあ、冠と烏帽子はシルエットでも見た目違うから分かるよ」
ではその日常の格好である常装で化けて出てくるところになにか意味があるのだろうか。
「さあ。一番多い格好だからじゃない」
師匠はすべての繊維を取り去り、すべすべになったみかんを満足そうに眺めながら言った。
「まあ、現地を見てみないことにはな」
そうですね。
窓の外に目をやろうとした瞬間、トンネルに入った。
「そういえば、最長で何日くらい向こうにいるんですか」
自分もそうだが、師匠の荷物もあまり多くない。
「その温泉で年越しを迎える馴染み客が何組かいるらしくてな。遅くとも二十九日までにはなんとかしたいらしい。まあ三日もあればなんとかなるんじゃないか」
二十四、二十五、二十六、と師匠は指を折った。
「三日ですか」
僕としては師匠が出向けば即解決か、解決不能かどちらかのような気がしていた。三日というのは中途半端な感じだ。
「強気に出たいけど、神主の霊が出るってのはただごとじゃない気がする。まあそれも踏まえて三日だ」
師匠がすべすべのみかんをまるごと口に放り込んだ瞬間、トンネルを抜けた。一瞬で、光が電車のなかに満ちる。
「お、着いたぞ。西川町だ」もぐもぐと口を動かしながら師匠が窓に張り付く。
緩い勾配の山が四方を囲んだ、盆地のような地形に出た。川が線路と平行に走っている。
田畑が広がっているその向こうに、かすかに市街地が見える。あまり高いビルの姿はなさそうだ。
「さあ、お化けを見に行こう」
師匠は目を細めて嬉しそうに言った。
◆
古びた駅の構内から出ると、申し訳程度の小さなロータリーに一台のバンが止まっていて、そのそばで二十代半ばとおぼしき年恰好の女性が立ったままタバコをふかしていた。
バンの側面には『旅館 とかの』と大きな文字で書いてあった。
「あ、小川調査事務所のヒト?」
女性がこちらに気がついてタバコを地面に落として踏みつけた。チェックのシャツに、ジーンズ、スニーカーという格好。
「私、『とかの』で仲居をしてる井口広子っての。よろしくね。あ、荷物後ろに乗っけるから」
そう言ってバンの後部ドアを開けると、僕と師匠のバッグを荷台にひょいひょいと放り込んだ。
スリムな体型に見えるが、意外に力があるようだ。
「まあ、乗って乗って」
僕らを収納し終わると、すぐにバンは発進した。背後の駅が小さくなっていく。
「バスのルートを教えてもらってましたけど」
師匠がクシャクシャになった紙を手にしながら言った。
「あ、そう? まあ、ちょうど私が暇だったから。それにバスだと一度役場の方へ回るからだいぶ遠回りなのよね」
広子さんはあまり丁寧とは言いがたい口調だったが、どこかしら好感を持てるキャラクターだった。
「ねえ、あんまり詳しく聞いてないんだけど、あなた除霊とかするヒトなの?」
「除霊はできませんよ。ただ……」師匠は無遠慮な問い掛けに苦笑する。「ただ、解決するだけです」
「ふうん」
広子さんはバックミラー越しに後部座席の僕の方を見た。
「そっちのコが、助手ってコ?」
「はあ。どうも」
会釈すると、広子さんは顔を変に中央へ寄せて笑顔を作った。思わずこちらもつられて笑ってしまう。
それからしばらく僕らはバンの座席で揺られ続けた。
師匠は広子さんに土地柄に関する質問をして、そのたびにしきりに頷いている。
「とにかくど田舎よ。ど田舎。あたしもいつか絶対こんなトコ出てってやるんだから。……あ、田中屋だ」
広子さんの視線の先には大型のバンが走っている。その後部には「田中屋」という文字。
「あれは、うちのお隣の旅館の車。お隣っても、うちが一番辺鄙なとこにあるから、だいぶ離れてんだけど。うわー、団体客乗せてんじゃん」
宿泊客用の送迎車らしい。
広子さんは舌打ちをすると、乱暴なハンドルさばきであっと言う間に前を走る田中屋の車を追い抜いた。
「へへーん。うちは小さいけど小回りが身上だから」
同業者なのに、いや同業者だからか、普段からかなり仲が悪そうだ。本人は口笛など吹いている。
いつの間にかバンは市街地から抜け、周囲に田んぼの広がる川沿いの土手を走っていた。広子さんは窓の外に目をやりながら、「枝川っての。線路沿いの増井川の支流」と言った。
窓から外を見ていると、大きな貯水池のようなものが前方に見えてきた。
「ああ、あれは亀ヶ淵っていう溜め池。昔なんとかって武将が作ったんだって」
平地の中にぽっかりと水面が開けている。かなり大きい。溜め池のそばの道沿いに看板のようなものが立っている。書いてある文字は見えなかった。
それからほどなくして蛇行した川を横切る形で橋を渡り、バンは山の麓の方へ進んでいった。
「着きましたよ。お客サマ」
バンが速度を緩めたのは、山に抱かれるような奥まった場所にひっそりと立つ二階建ての建物の前だった。
『とかの』という、ひらがなで大書された屋号が玄関に大きく飾られている。
大きく開かれた門を抜け、玄関に近づいていくと旅館の半被を着た若者が大きな箒を持って枯葉を掃いていた。
「あら。あのお坊ちゃん、また来てるよ。マメだねえ」
お坊ちゃん? 広子さんの口調には呆れたような、それでいてどこか意味深な響きがあった。彼はこの旅館の従業員ではないのだろうか。
広子さんが玄関に車を横付けすると、若者はこちらに軽く頭を下げてから自動ドアの中へ消えていった。
そして僕らが車を降りて荷物を出そうとしていると、白髪交じりの髪を短く刈り揃えた男性がドアから出てきて「お待ちしておりました。お持ちします」と言った。やはり旅館の半被を着ている。小太りだが、動きはキビキビしていた。「あ、いや、自分で持ちます」と言いかけた師匠から押し付けがましくなく、自然に荷物を受け取った。
どうやら水周りのトラブルに呼びつけた修理工という感じではなく、それなりに客としての待遇ではあるようだ。
「あ、お父さん。くるま、車庫でいいの?」
広子さんの言葉に男性は頷いてから、ニコリともせずに「こちらへどうぞ」と僕らを自動ドアの方へ先導した。どうやら親子で働いているらしい。広子さんは仲居ということだったが、さしずめ父親は番頭というところか。
車を回す広子さんを尻目に僕らは旅館の中に入っていった。
タイル張りのたたきで靴を脱ぐと、狭いが整然としたロビーが目の前にあった。床には赤い絨毯が敷き詰められている。中は暖房が効いていて、ほっと人心地がつけた。
人形などの民芸品で飾られたフロントの奥から、和服の女性が姿を現した。薄桃色の上品な着物だ。
「ようこそいらっしゃいました」
微笑んだ後で頭を下げる姿は流れるようで、いかにも身についた仕草という感じがした。
四十年配の女将は続けて「依頼をした戸叶(とかの)です」と名乗った。師匠が名刺入れを出したので、僕も慌ててポケットを探る。
興信所の所長は僕らバイトにも名刺を作ってくれていた。ただし、大きな声では言えないのだが、偽名だ。バレやしないかといつも不安になる。
女将も懐から名刺を出してお互いに交換した。
「よろしくお願いします」
特に名刺の名前に疑惑を持った風もなく、女将はにこやかに「まずお部屋へどうぞ」と片手を広げた。
ロビーを回り込むように抜けると、先へ伸びる廊下と階段があり、僕らは二階に案内された。
本来師匠が一人でやってくるはずのところを、急きょ僕も助手としてついていくことになったので、部屋が二人分用意されているのか不安だったが、並びで二つきちんとかまえられていた。
和室の中に通されると、思ったより広く、家族連れなどのグループ客が使う四、五人用の部屋のようだった。こんなことろを一人で使うのは申し訳ない気分になる。
女将は「今日はあと二組お見えになっているだけですから、お二階はすべて空いておりますので」とこちらの考えを見通したようなことを言って、「また後で参ります。遠路お疲れでしょうからまずはおくつろぎください」と去っていった。
僕としては、「申し訳ありません、一部屋しか用意できず」、「いえいえ、一向に構いません。ねえ師匠」、「しょうがないなあ。布団だけは離して敷いてくださいね」という展開を心のどこかでは期待していたので、幾分がっかりしたのだが。
とりあえず荷物を置いて、部屋のテーブルにあった茶菓子を掴むと隣の師匠の部屋へ移動した。同じような造りの和室だ。
隣の部屋では師匠がさっそくお茶をいれていたので、ご相伴に預かることにする。
「思ったよりいいところだな」
師匠の言葉に僕はこれまでに見たこの旅館のパーツ、パーツを思い浮かべ、そして頷いた。
「ただで泊めてもらって、その上、バイト代ももらえるなんて最高じゃないか」
「その分プレッシャーなんですけど」
口にすると、なんだか本当に不安になってきた。
興信所の常として、成功報酬は別として、たとえ依頼内容が達成できなくても最低限の基本料金は払ってもらうのだ。もしこれでなにも成果なく逃げ帰るようなことになったら、と思うと……
「いいじゃないか。お化けを退治したら済むことなんだから」
「そう。それなんですよ。なにか感じますか、この旅館に」
僕はなにも感じない。今のところは、だが。
師匠は「うんにゃあ」と気のないそぶりで首を振ると、茶菓子に手を伸ばした。
「とりあえず、ただの噂とか勘違いの路線で裏づけを取る方向ですか? それともあくまで本物という前提でやっつけに行きますか」
これだけなにも気配を感じないとなると、『見る』のは大変そうだ。
「まあ、大丈夫じゃないか。聞いた話でも、出るのは夜だっていうし。それにカンだけど、今回のはたぶんホンモノだよ」
師匠はあっけらかんとしている。「お茶うめえ」などと言って僕の分の茶菓子にまで手をつけている。
そうこうしているうちに、女将がやってきた。そして依頼のことを口に出そうとしたとき、師匠がそれを制した。
「場所を変えましょう。この部屋では、主客が逆転してしまう」
女将は意外そうな顔をしたが、すぐに微笑んで「では下の応接室で」と言った。
なるほど。僕らは依頼を受けた立場で、女将の方が依頼客だ。それなのに、この客室にいては、職業柄女将は僕らを客として遇してしまうに違いない。それではちぐはぐなやりとりになると師匠は考えたのだ。さすがに慣れている。
階段を降り、僕らはフロントのちょうど裏側にあった応接室に通された。
僕と師匠はソファーに腰かけ、テーブルを挟んで向かいに女将と出迎えてくれた角刈りの男性。
「番頭兼料理長の井口です」
女将の紹介に男性は「井口勘介です」と頭を下げた。「先代からお仕えしております」
愛嬌のある顔ではない。薄くなりかけた頭の下に丸い鬼瓦が鎮座している。どこかムスッとしているようだ。そしてその、お仕えしている、という時代錯誤な言い回しに、犬のような実直さを垣間見た気がした。
女将の名前は戸叶千代子といって、この温泉地である松ノ木郷で五つあるという温泉旅館の一つである『とかの』の三代目だということだった。
この松ノ木郷は、温泉地としては歴史が浅く、明治に入ってからボーリングによって湧き出したものなのだそうだ。
その温泉旅館の中でもこの『とかの』は一番新しく、大阪で材木問屋を営んでいた初代の戸叶亀吉氏がこちらへ移り住んできて開いたものだという。
一番の新顔ということに加え、よそ者ということで最初は随分苦労したそうだ。旅館組合でもなにかにつけ、意地悪をされてきたという。
そしてそれは代を重ねた今になっても、日陰の下で続いているという話だった。
「私など、生まれも育ちも松ノ木ですのにね」と女将は寂しそうに呟いた。
そのよそ者に対する意地悪も、番頭の勘介さんという存在のおかげで幾分か和らいでいるそうだ。勘介さんの井口家は、地元の水利組合や消防団などでは中心となってきた家で、いわば松ノ木郷では顔役の一つだ。その息子が番頭をしているというだけで、古参の旅館への睨みが利いていることになる。
勘介さん自身も持ち前の気性で、旅館組合の寄り合いなどで『とかの』が不利になるような取り決めが持ち出されると、真っ赤になって怒鳴りちらし、反故にしてしまうようなことも多々あった。
勘介さんは若い時分、あまりの不良ぶりで実家から勘当されそうになっていたところを、『とかの』の先代、つまり千代子さんの父親に諭されて、ここで働くようになったのだそうだ。元々なにか打ち込めることがあると、真面目に取り組む性格だったらしく、とたんに人が変わったように汗水を流すようになり、先代にも大変可愛がられた。それ以来、『とかの』への忠誠心たるや金鉄のごとし、という具合で、今や娘も仲居として親子二代で働いているのだそうだ。
ただこの情報、後半のほとんどはその娘の広子さんから後に聞き取ったもので、当の勘介さんは師匠と女将が応接室で話している間、ほとんど口を利かずに不機嫌そうな顔をしていた。
「幽霊が出るという噂が立ったのは一年ほど前からです」
とうとう本題か。
僕は緊張して膝の上の拳を硬く握った。
『とかの』の宿泊客から「夜中に幽霊を見た」という苦情が出るようになり、その噂が狭い松ノ木郷、そして松ノ木郷のある西川町に広がるのはあっという間だった。
それも決まって「神主の格好をしていた」というのだ。
やがて仲居など従業員からも「見た」という証言が出始めた。このままにしておけないと、地元の若宮神社に相談して、お祓いにきてもらった。しかし、一向にその出没が収まる気配はない。
隣の地区の寺にも頼んだが、やはりどれだけ念仏を唱えてもらっても効き目は現れない。
それどころか、夜に僧侶に来てもらった時など、しつらえられた護摩壇の上にそれをあざ笑うかのような神主姿の霊が浮遊しているのが見えると言って列席者から悲鳴が上がり、読経が中断される騒ぎにもなった。
もはや手の打ちようがなく、噂を恐れて客足は減る一方。幸いにして「祟られた」だの「不幸があった」だのという話はなかったため、いっそ開き直って「神主さまの霊が現れる有り難い宿」という触れ込みで営業をするしかないのかと、今では迷っているのだそうだ。
松ノ木では比較的新しいとはいえ三代続いた温泉宿だ。もちろんそんなことは本意ではないだろう。女将は暗い顔をして語り終えた。
師匠はソファーに深く腰掛け、天井を見上げるような格好で思案げな顔をしている。
その様子に、なにか見えるのかと女将も不安そうに天井を見上げる。もちろんそこにはなにもなかった。
それにしても、幽霊が出るという噂は旅館業にはつき物だと思うが、ここまで深刻な話になるというのは余程のことだ。
師匠は前に向き直り、左手の指の背を顎先にあてながら女将に問い掛けた。
「あなたは見ましたか」
「はい」
女将は硬い表情でそれだけを口にした。
「一回ですか」
「いえ、何度か」
「その、神主の霊はなにかを訴えているような感じでしたか」
「さあ…… それは分かりかねます」
「こちらに危害を加えそうな様子ですか」
「そう、おっしゃる方もいらっしゃいます」
「あなたはそう感じなかったと?」
「はい」
師匠はこの場では自分自身のことを詳しく説明していない。ただこうしたことの専門家だということだけが事前に先方に伝わっているはずだった。
女将は師匠のことをどう思っているだろう。テレビで見るような霊能者のように、「この霊はこういうことを訴えているのです」などとすぐさま断言し、そのうえ自ら憑依現象など起こしてみせるようなことを期待しているのだろうか。
「神主の服装は、どうです」
「どう、と言いますと?」
「今の若宮神社の宮司のものと同じですか」
「えっ。それは」
女将は驚いた表情を浮かべた。
「同じ、だったかと思いますが」
「自信はないんですね。では、若宮神社の宮司は霊を見ていますか」
「見て、いないようです」
「服のことは宮司から訊かれませんでしたか」
「はい」
師匠は舌打ちをした。
「大事な要素です。いつの時代の霊か、分かるかも知れないのに……。宮司は霊についてなんと言っていますか」
「どうしてこういうことになるのか分からない、と。とても困惑しています。それはこちらもですが……。とにかく、若宮神社にも私どもにも、まったく心当たりがないんです」
「よそ者、という点に関してはどうです。代々の氏子ではないわけでしょう」
「そんな。町の外から移り住んできた家は他にもありますし、私どももこちらに来てからは初代より若宮神社の氏子です。旅館組合からは継子(ままこ)にされても、若宮さまはわけ隔てなく接してくださいましたから、お互いにうらみつらみもございません。私は当代の宮司の章一さんとは同じ小学校の先輩後輩で、年下の私を良く気にかけてくださいますし、娘の楓は、章一さんの次男の和雄さんと幼馴染でとても仲が良いのですから」
若宮神社の宮司は石坂という名前らしい。
勘介さんがムッスリした顔のまま頷いたところをみると、そのあたりの事情はそのとおりのようだ。
「では、いったい何のために霊はさまよい出てきているのでしょう」
「私どもには分かりかねます」
それはそちらの仕事だ、という表情で女将は師匠の目を見つめ返した。師匠は溜め息をついてその視線を避けると、少し口調を変えて言った。
「写真はどうです」
「え?」
「写真です。心霊写真。その神主の霊の写真は撮れていませんか」
「写真は…… 聞いたことがございません。写真に撮ったというような話はなかったかと思います」
「そうですか」
師匠は残念そうに自分の額を叩いた。
「いや、しかし、古い霊だと基本的に写真には写らないので、正体を知る上では少しヒントになるかも知れない。わたしの経験上、写真文化の成立前の霊は、心霊写真として撮れないことが多いんです。写真という、己を写しとりうる機械の存在を知らずに死んだ霊らならば。つまり、江戸時代後期以前の霊ならば……」
はじめてそれらしいことを言った師匠に、女将は困ったような表情を浮かべた。信じて良いものか、迷っているような顔だった。
「まあいいでしょう。あとは、そうですね、この旅館の裏手は山になっていますが、そちらにはもしかしてその若宮神社の分社がありませんか? あるいは昔あったとか」
「いえ、ありません」
即答だった。
「今でも良く気晴らしに登ることがございますが、そういうものはありません。登り口が表から少し回りこんだところにあるんですが、そちらから山に入れます。気になるようでしたら、そちらからどうぞ。とっても見晴らしが良いところがあるんですよ」
「それはぜひ。では、まず旅館の中を見せてもらいましょうか。恐らくですが、夜までなにも起こらないでしょう。それまで、できるだけ情報収集をしたい」
師匠は立ち上がった。
「運が良ければ今夜中に、相手の正体が分かるでしょう。正体が分かれば対処のしようがあります」
応接室を出るとき、先に立った僕がドアを開けると、すぐ前にいた女性にぶつかりそうになった。
「うわ」という声が出てしまった。相手も驚いたようだったが、ばつの悪そうな顔をして後ろの女将の方を見て首を竦めている。
「楓、なにしてるの」
「あの、いや、ちょっと」
楓というと、さっきの話にも出た女将の娘のはずだ。僕と同い年くらいだろうか。髪をポニーテールにして、タートルネックの黒いセーターにデニムのパンツといういでたちからは、活発そうな印象を受ける。
どうやら盗み聞きをしていたらしい。
悩みの種だった幽霊騒動のさなか、解決のために霊能力者が雇われた、となると若い彼女が興味津々となるのも無理はない。
「楓、後でこの方々について裏山をご案内しなさい」
溜め息をつきながらの女将の言葉に、楓のすぐ後ろにいた仲居姿の女性が身を乗り出す。
「あ、私が案内しましょうか」
広子さんだ。いっしょに盗み聞きしていたのか。
「おまえは夕食の仕込みがあるだろうが」
勘介さんがボソリと言って自分の娘の頭を小突いた。結構痛そうだった。
◆
それから師匠は小一時間旅館の中を調べて回った。特に幽霊が出たという場所では、いつ、誰が、どんな風に見たのかをこと細かく聞き取った。
僕はそれにくっついて回り、書記係となって聞いた内容をすべて大学ノートにメモしていった。
師匠はその間、聞いた内容に関する評価をほとんど下さなかった。ただ淡々と事実を収集していくだけだ。
それらの目撃談は、旅館中に及んでいた。玄関や、廊下、客室や宴会場、そして中庭や温泉。その節操のなさからは、場所に関する拘りをまったく感じなかった。ただ、その頻度からはこの『とかの』という温泉旅館そのものに対する異常な執念、あるいは執着のようなものを感じられた。
神主姿の霊は、人に危害を加えようとするようなそぶりこそ見せていないようだが、目撃者は皆、なんらかの怨念じみた恐ろしさを感じて怯えている。廊下の壁から抜け出るように突然現れたかと思うと、反対の壁の中へ消えて行ったり、夜中に宿泊客がふと目を覚ますと布団の周囲を数人の神主姿の霊がゆっくりと歩いているのが見えたり。現れ方も様々だった。
「数人?」
宿泊客からそんな話を聞かされたという仲居の一人に、もう一度確認する。
「ええ。二、三人か、三、四人か。うろうろ歩いていたそうです」
「顔は? もしかして全員同じではなかったですか」
訊かれて四十年配の仲居は首を傾げる。
「そんなことはおっしゃってませんでしたね。でも、私も見たことがありますけど、顔はあまりよく見えないんですよ」
顔のあたりは妙にぼやけていて、ただ蒼白い顔をしている、ということだけが分かるのだという。
「ありがとうございます」
師匠はおおよそ必要と思われる情報を集め終わったのか、あるいはこれ以上聞いても有益な情報は得られないと判断したのか、調査を一旦打ち切った。
時計を見ると午後三時を回っていた。
「では裏山に登ってみます」
師匠がそう告げると、女将は娘を呼んだ。
「楓、ご案内しなさい」
「はあい」
セーターの上からジャンパーを羽織った格好で現れた楓は、元気に返事をすると右手を高らかと挙げてみせた。
「あ、では僕も」
その後ろから旅館の半被を脱ぎながら大柄な青年が現れて、はにかみながらそう言った。さっき玄関で枯葉を掃いていた人だ。
この若者が女将の話に出てきた、若宮神社の宮司の次男らしい。
その掃除している姿を、「お坊ちゃん」と呆れたように評した広子さんの態度が気になって、聞き込みの最中にもう一度広子さんを捕まえ、彼が何者か訊ねてみたのだ。
彼は石坂和雄といって、県内の大学の三回生。キャンパスの近くに下宿しているのだが、冬休みになって実家に帰省しているらしい。
そんなたまの里帰りなら、実家で足を伸ばしてゆっくりすればいいのに、と思うが、広子さん曰く、この旅館の一人娘の楓にホの字らしいのだ。そのために、ヒマだからなにか手伝いますよと言って、足繁く『とかの』に通ってきては掃除に荷物運びにと、汗をかいているらしい。
そして夕方遅くなると、一緒に晩御飯でも食べていきなさいという話になり、いとしの楓ちゃんといられる時間をがっちりキープする、という具合だ。
もっともそれは今に始まったことではなく、狭い田舎のコミュニティの中で昔から幼馴染として仲良くしてきたらしい。
和雄の父親である現宮司の章一さんは女将の千代子さんと幼馴染であるし、章一さんの奥さんの昌子さんは千代子さんと同じ華道の先生についていた縁で仲が良いらしい。いわば家族ぐるみの付き合いだ。
そして二つ年下の楓が今年の春に高校を卒業し、地元の短大に通い始めてから和雄のアプローチが積極的になってきた。
将を射んと欲すれば、まず馬から射よ。とばかりに旅館に入り込んでテキパキと仕事をしてみせる和雄を、女将は上手く操っているようだ。
女将は十年ほど前に夫と死に別れ、それ以来女手一つで楓さんを育て、親から受け継いだ旅館を切り盛りしてきたのだそうだ。
いずれ楓に婿を取って、跡を継いでもらわないといけない。そこに若宮神社の次男坊であり、幼馴染の和雄といううってつけの人物がいるのだ。これを逃す手はない。
楓自身はまだ短大に入ったばかりで、遊びたいざかり。どうやら和雄のことは憎からず思っているらしいのだが、まだはっきりとは態度で示さず、バイトにサークルにと忙しい日々を送っている。
そんな二人の間を巧妙に取り持って、けっして下手に出ることなく、和雄の方から積極的にこの旅館へ通わせてあれこれ手伝わせているのが、女将の千代子さんというわけだ。
聞くと、和雄は普段の土日にも良く顔を出しているらしい。まめなことだ。
「じゃあ、行ってきます」
楓が玄関先で振り返りながら声を張り上げる。
「和雄さん、お願いね」
「はい」
女将は和雄の方へだけ声をかけた。そして師匠と僕に会釈して旅館の中へ戻って行った。
「こっちでーす」
楓が先導して、敷地の外へ出る。すぐ裏の山なので、旅館の建物を回り込んで行くのかと思っていた。
「この先を回ったとこから入山口があるんですよ」
早足で一人先へ先へ進む楓に苦笑しながら、和雄が説明する。
旅館のそばを流れる川沿いに少し歩くと山側に石段のようなものが見えてきた。「ここから登りまーす」
楓は苔むした石段を二段飛ばしで登っていき、そのたびにポニーテールの先がピョコピョコと揺れた。元気だし、動きが妙に可愛らしい。
和雄でなくとも、こういう子が幼馴染なら悪い気はしないなあ、などと考えていると後ろの師匠から「早く登れ」と尻を蹴られた。
石段はすぐに途切れ、枯葉で覆われた山道が現れた。標高の低い山だが、道はかなり険しい。寒さに慣れた身体はすぐに熱くなり、息が荒くなった。それでも山歩きは今年、師匠にかなり鍛えられたので、ペースを乱すほどではなかった。
楓と和雄も慣れた足取りで平然と登っていく。
「へえ~。興信所で働いているんですか」
「ああ。その中でもわたしはオバケ専門」
「なんですか、オバケ専門って」
和雄は吹き出しながら師匠と会話を続ける。なんだか如才ないやつだ。体格も良く、少し彫りの深い顔だがなかなかの色男だし、なんと言っても笑顔が爽やかだった。
実に気に食わない。
「僕らも見たんですよ、例の幽霊」
な? と先頭の楓に話を振る。
「うん。見たよ。怖かった」
「どんな風に?」
師匠はこの場にいるのが全員年下のせいか、さっきまでの営業トークから一転してくだけた口調で話しかける。
楓は平日に仲居が一人休んだので、晩の給仕を手伝わされていた時、膳を下げるため廊下を通っていると窓ガラス越しに、やけに白っぽい格好のふわふわした人影が目に入ったのだそうだ。
「出る、って聞いてたけどホントに見たら腰が抜けそうになりますねえ」
人影はすぐに消えてしまったらしい。三ヶ月くらい前のことだった。
「僕の方は風呂場ですよ。二ヶ月くらい前かな。大浴場の外に露天風呂があるんですけど、帰りが遅くなって泊めてもらった時に、お客さんが全員出た後で一人で入ってたんですよね。そしたら湯気の中からこっちにスーッって水面を歩いてくる人がいるんですよ。やばい、と思って立ち上がって逃げようとしたんですけど、お湯に足を取られて走れなくて、向こうはスーッて近寄ってくるでしょう? 生きた心地がしなかったですよ。なんとか逃げ切って脱衣所のところまで来て振り返ったらもう見えなくなってましたけど」
あ、露天風呂自体はすごく良いお湯ですから、後でぜひどうぞ。
和雄はさりげなくそう付け加える。
「あなたはその神主の霊の子孫じゃないの? なんでびびってんの」
「いやあ、それなんですけど、なんかピンと来ないんですよね。ご先祖様がなんで『とかの』を祟らないといけないのか、さっぱり分からないんですよ。なにか言ってくれればいいのに、うらめしいの一言もなしですよ。なんなんでしょう、一体。親父も首を傾げてますよ」
父親の章一さんはかなり責任を感じていて、女将や楓に会うたびに頭を下げているらしい。御祓いも何度も行なったし、それでどうしても上手くいかなかったので、恥も外聞もなくこうしたことに強いというお寺を自ら探してきたりと、とにかく神主の霊が出なくなるように協力してくれている。今のところその効果は見られないようだが。
次男とはいえ、成人した息子が幼馴染の女の子のところへ入り浸って、その家業の従業員のような真似をしているのを叱りもせずに見逃している、というのも、そうした後ろめたさがあるせいなのかも知れない。
「お父さんが宮司なんだよね」
「ええ。もう先祖代々の」
師匠は若宮神社の宮司、石坂家の家族構成を正確に聞き出した。
父親が宮司の章一、母親が昌子、兄が皇學館の大学院に在籍中の修(おさむ)、そして妹が専門学校生の翠(みどり)。あと父方の祖母がいるそうだが、今は西川町の病院に入院中とのことだった。
この一帯の松ノ木郷も行政単位としては西川町の一部なのだが、このあたりの人は町役場のあるあたりだけを指して西川町と呼んでいるようだ。
「兄貴が大学を卒業したら、戻ってくるんですよ。うちで権禰宜をしながら、西川町の高校で歴史を教えるって言ってます。親戚筋の神社からも、神職の手が足りないって相談されてるんで、ひょっとしたらそっちに行くかも知れませんけど」
どっちにしても、いずれはうちの若宮神社の跡を継ぐんですけどね、兄貴は。
和雄は冗談めかして自分の二の腕を叩いた。「だから、僕なんて肩身が狭いですよ。早いトコ手に職つけないと、いずれ実家から追い出されちゃいますから」
和雄の方は神道系のコースのある大学ではなく、一般大学の法学部に在籍している。
「章一さんの前の宮司はお祖父さん?」
「そうです。もう五年になりますね」
すでに亡くなっているらしい。師匠は、『とかの』に現れる霊がそのお祖父さんである可能性はないかと尋ねた。すると和雄は、それはないですねと即答する。
「祖父はあの年代の人にしては凄く押し出しの立派な人でしたから」
今の自分よりも背が高かったんですよ、と頭の上に手をやってみせた。
なるほど。そんな大柄な人なら、たとえ顔がぼやけていようが、幽霊になって現れたらそれと分かりそうなものだ。女将や旅館の人々も先代の宮司を良く知っているだろう。誰もそのことに触れないということは、どうやら和雄の祖父が化けて出ているわけではないようだ。もっと昔のご先祖様ということか。
「最近、神職の服が盗まれたりってことはない?」
師匠の問い掛けに和雄は眉をひそめる。
「誰かが、イタズラでもしてるってことですか」
「まあ、どんなことでも可能性はあるから」
自分自身、幽霊を目撃したという和雄からすると、それが誰かのイタズラだと言われても納得できないだろう。確かにこれまでに聞いた多くの目撃談からしても、すべて人間の仕業というのは無理がある気がする。
「服が盗まれたことなんてありませんよ。もちろん紛失もありません」
和雄がはっきりそう言うと、師匠は「そう」と言ってそれ以上追求しなかった。
「あ、この先から見えますよ」
楓が指さした先には木々の群れがぽっかり抜けたような空間があった。その開けた所まで登りきると、遠くの景色が見渡せた。
「見晴らしがいいなあ」
師匠が手近な切り株に片足をかけた。
眼下には枯れ木で覆われた山の峰が広がっている。それほど高くは登っていないはずだが、角度のせいか、ここからは『とかの』は見えない。その代わり、平野を隔てた遠くの山の中腹になにかの建物が見えた。
「あれが、うちの神社ですよ」
和雄が指をさす。
「こうして見ると、結構近いな」
「でも『とかの』から歩いたら一時間近くかかりますよ」
見下ろす風景の中には畑や田んぼ、そして枯れ木ばかりの林など、寂しい色彩ばかりが広がっている。その間を縫うように、枝川がくねくねと蛇のようにうねりながら伸びていた。
「なにもないところでしょう。だんだん人口も減ってますし。うちの神社のあたりなんて今じゃバス停も遠くになっちゃって、不便でしょうがないですよ。家族全員バイクに乗ってるくらいです」
「え~。うちの『とかの』のあたりの方がバス停遠いじゃん。たまにはそのくらい歩きなよ」
そんなことを話しながら、しばらくそこで景色を見ていると、陽が翳ってきて寒さが身体に戻ってきた。風も少し出てきたようだ。
「もう少し先が頂上ですけど」と和雄が尋ねたが、師匠は首を振って「もういいや。戻ろう」と言った。
頂上までの道はここから少し下った後でまた登りになっていたが、そのすべてがすでに見渡せた。女将の言っていたとおり、裏山には神社やそれに関するものは全く見当たらなかった。頂上の反対側の下りも同じようになにもない、と楓と和雄が断言した。
師匠はそれほど残念そうでもなく、また先陣を切って元来た道を下り始めた楓の後ろについて山道を踏みしめていった。
五分ほど歩いただろうか。
右手側に大きくV字形に抉れた谷が広がっている場所に出たのだが、そこで師匠が足を止めた。
谷の方へ身を乗り出して首を伸ばしている。先はかなり急な崖だ。後ろにいた僕は思わず「何をする気ですか」と止めに入りそうになった。
師匠はキョロキョロと周囲に目をやると、手がかりとなる木がまばらに生えた獣道を見つけ、そこから崖の下へ降り始めた。
止める間もなかった。
最初にザザザと山肌を滑るように降りた後、枯れ木にしがみついて勢いを殺し、そこから先は器用に木の枝につかまりながら、あっと言う間に谷の底近くへたどり着いてしまった。
地元民の二人も驚いたようにそれを見つめている。
「なにかあるんですか?」
僕は両手でラッパを作って声を上げる。
師匠は谷の奥でうろうろしながらせわしなく動いている。
「ああ。こいつは地滑りの跡だ」
斜めに生えている潅木を叩きながら返事が返ってきた。その谷は途中から水が湧いていて、さらに下へと流れていっている。
師匠はそのあたりの土を掘ったり木を揺すったりしながらその周囲を探索していたが、やがて山肌から突き出ていた石の前にしゃがんで、堆積した土や苔などを手で払い始めた。
僕たちの眼下でその動きがふいに止まり、またすぐに立ち上がったかと思うと、そばの谷川の淵へ近寄っていった。その先はさすがに危険な地形だったので諦めたのか、師匠は猿のように木の枝につかまりながらこちらへ戻り始ってきた。
「悪い。待たせた」
山道へ戻ってくると、ズボンの土ぼこりや枯葉を払いのけながらあっけらかんと言う。
「すごいですねえ。レンジャーみたい」
楓がそう褒めると、和雄は「危ないからもうやめてくださいよ」と心配そうに詰め寄る。
「わかったわかった。もう帰ろう」
と師匠は笑った。そして楓、和雄の後についてふたたび山道を下り始める。
なにか、予感のようなものがして、僕はそのすぐ後ろについた。すると、前を行く二人としばらく談笑しながら歩いていた師匠が、こっそりとした手の動きで合図をしてきた。
顔を近づけた僕の耳元に素早く口を寄せ、「地滑りの跡に埋もれた石の表面に、こんな模様があった」と囁いた。
そして僕の手を握り、手のひらに指でなにか文字のようなものを書いた。
「え?」
と怪訝な顔をした僕に、師匠は「面白くなってきた」ともう一度囁いて、前を行く二人を早足で追いかけていった。
なんだろう。この字は。
僕は手のひらに残る文字の感触をじっと記憶に刻みながら、そして同時に記憶を呼び覚まそうとする。
漢字だ。
雨冠は分かる。その下に、丸…… いや、口がみっつ。横に並んでいる。そしてさらにその下になにか複雑な字が続いている。龍という字だろうか。あるいは能力の能という字か。いずれにしても、そんな漢字があるのだろうか。物凄く画数が多い。しかし全体のバランスからして、一つの字としか思えない。
なんだ、この文字は。
僕は自分が足を止めていることに気づく。
前を行く師匠の背中に視線を向けたまま、手のひらに刻まれた文字の感触に身震いする。
なんだ、これは。
そんなことを口の中で繰り返しながら僕は冬枯れの山道に立ち尽くし、じわじわと、その文字に沿って自分の血が流れ出て行くような、得体の知れない悪寒に包まれていた。
◆
『とかの』に帰り着いたとき、腕時計を見ると午後四時半を回っていた。
旅館の玄関から中へ向かって楓が「ただいま」と声を張り上げる。少しして女将がフロントの奥から姿を表した。
「どうでしたか」
「いやあ、期待はずれですね」
師匠は明るくそう言って、山の上からの景色についてしばらく女将と語り合っていた。僕は地滑りの跡で見つけた石についてどうして黙っているのだろうと疑問に思った。
その師匠の横顔がスッとこちらに向き直る。
「おい、次を見に行くぞ」
「え」
まだどこか行くんですか。
師匠は女将にこのあたりの道を尋ねている。
つい、つい、と袖を引かれた。楓が耳元に顔を寄せてくる。
「なに」
「あの人ほんものなの?」
「なにが」
「霊能力者」
まあ確かにここまでは、まったくそれらしい所を見せていない。
「テレビに出てくるのとは違うけど、霊を見ることに関しては凄いよ」
霊感が強いだけの人なら他にもいるだろうが、師匠の本当に凄い所は、その見たこと、体験したことに対する料理の仕方なのだ。
それはある意味、探偵的と言えるかも知れない。つまり興信所の調査員であるこの今のスタイルで正解なのかも知れなかった。
「ふうん。まあいいや。で、付き合ってんの?」
いきなりすぎて吹きそうになった。
「助手だよ」
「それもう聞いた」
「まあいいじゃないか」
ああ。やってしまった。明確に否定しないという、見栄。
軽い罪悪感に襲われていると、二人でひそひそやっているのが気になったのか、和雄が「なになに」と近づいてくる。
「よし、行くぞ」
師匠に服を掴まれる。軽く引きずられながら「どこへ?」と訊くと「この旅館の周辺の調査」
ようするに散歩ですか。
という軽口が出そうになったが、クライアントの前なのでさすがに自重した。
「また案内したいですけど、ごめんなさい。これから用事があって」
楓が頭を下げる。高校時代の友だちとクリスマスイブパーティをするらしい。
それを聞いて、僕はようやく今日が十二月二十四日であることを思い出した。
思わず和雄の方を盗み見するが、「いいあなあ」などと余裕ぶっている。しかし内心はどうだか分からない。
「じゃあ、僕もそろそろ帰ります」
旅館の外に出ると、和雄もそう言って敷地の隅にとめてあったバイクに跨った。排気音とともに手を振りながら去っていく姿を見送る。
「あ~あ、かわいそうに、あいつ」
人ごとのようにそう言う師匠だったが、十二月二十四日という今日は僕らにも平等に訪れていることを分かっているのだろうか。
「日が暮れる前に行くぞ」
そう言って歩き出した。すでに日の光は西の山の端へ隠れつつあった。
それから小一時間かかって周囲を散策しながら枝川沿いに旅館へ来たときの道を逆に辿っていった。寂しい道で、あまり地元の人ともすれ違わなかった。
やがて道路沿いに背の高い金網で覆われた一帯が見えてくる。来たときに見た貯水池だ。周囲はすでに薄暗く、膨大な水量を蓄えた水面は輝きもせず、死んだようにひっそりとしていた。
金網のそばに看板があった。
『亀ヶ淵(かめがぶち)』という名前のこの貯水池は、応仁の乱の後に戦国武将が各地で覇権を競い始めたころ、この地に侵攻してきた高橋永熾(ながおき)が自身の勢力の新しい拠点として今の西川町一帯を封じた時に作ったものだそうだ。
枝川の水量が安定せず石高が伸びなかったこの地に、持参した地金を惜しげもなく投じて土木工事を行ない、巨大な水瓶を提供したのだ。
師匠はその看板の説明文を読み終えて、ぼそりと言った。
「問題の若宮神社は、この武将が開いたのかも知れないな」
「どうしてですか」
「若宮って名前のつく神社は、例えば大分の宇佐神宮を本宮とした場合、その御祭神である八幡神こと応神天皇の子、つまり御子神であるところの仁徳天皇を祀った神社のことだ。あるいは、単に本宮から新たに迎えた御祭神という意味で若宮と呼ぶ場合もある。その場合は八幡神である応神天皇の分霊を祀っている神社ということになる。いずれにしても、基本的には本宮ありきの神社なわけだ。そして本宮から新たな若宮を勧請してくるのは、国司やその地の豪族などの実力者と相場が決まっている。戦国時代にあっては、その役割の中心を担ったのが……」
戦国武将というわけか。
高橋永熾が元々の勢力圏で信仰していた神社から、新たな支配地であるここへ、その御子神か分霊を勧請してきたということならば、確かにありそうだ。
「もう少し調べてみたいな」
いずれにしても、その若宮神社に行って宮司と話をしてみる必要があるだろう。時計を見ると、まだ六時だった。さっきその時間を告げる鐘の音が鳴ったばかりだ。訪ねて行けない時間でもない。その息子である和雄と面識があるので、話も通しやすいだろう。
しかし師匠は少し考えた末、「また、明日にしよう」と言った。
とりあえず、その旅館に出るという霊とやらを見てみるのが先だということか。
「戻って、飯食おうぜ」
踵を返した師匠に、頷いてから後に続いた。
そう。それが気になってしょうがなかったのだ。旅館の夕食ということで、料理を期待しても良いのだろうか。それとも僕らは仕事で来ているのだから、「え? そちらの夕食は用意していませんが」とあっさり言われたらどうしよう。
近くに弁当とかパンを買える店があったかなあ、と思い悩みながら歩いた。
ようやく『とかの』に帰り着くと、玄関のあたりが妙に騒がしかった。見ると二十代半ばくらいの女性が四人、たむろしていた。
ああ、そういえば今日は僕らの他に二組、客がいるって聞いてたな。
「こんばんわ」
師匠は愛想よく挨拶をして旅館の中に入る。
「あ、こんばんわ」
出迎えた番頭の勘介さんに荷物を渡しながら、女性たちもこちらに笑顔を向けた。みんな暖かそうな服装をしている。仲良しOL四人組というところか。
それもクリスマスイブに温泉旅館に泊まるってことは、恋人のいない仲間同士ということだろう。
玄関を通り抜け、廊下の手前で師匠にそのことを囁くと、おもむろに腕時計を見て、その針を示しながら口を開いた。
「日没の後だから、『クリスマスイブ』の用法としては正しい」
まだこだわっているのか。
「あ、ちょうど良かった」
仲居姿の広子さんが僕らの前に現れて、手招きしながらフロントの奥へ入っていく。
「電話かかってきてるみたい」
事務所の電話をとっていた女将がこちらに気づいて、電話口に軽くお辞儀をしてから師匠とかわる。
受話器から声が漏れている。大きな声だ。
「お食事、お部屋にお持ちしますので、それまでおくつろぎください」と僕に言って、女将は忙しそうに事務所から出て行った。
師匠はうざったそうにあしらうような口調で話し終え、受話器を置いてから溜め息をついた。
「例の婆さん。この宿の馴染み客で、わたしを女将に紹介したひとだよ」
ああ、頼みもしないのに方ぼうへ師匠のことを宣伝しているという人か。
「万事任せておけば大丈夫だから、失礼のないようにしなさい、って女将に釘刺してくれたんだと。……他に余計なこと言ってないだろうな、あのばあさん」
そう言って苦笑する。
「自分も正月泊まりに行くから、幽霊退治よろしくな、ってさ」
それから部屋に戻ろうとすると、師匠が「ついでに電話するところがあるから、先に戻ってろ」と言う。調査事務所の所長の小川さんに今日のことを報告でもするのだろうかと思い、あてがわれた二階の部屋に一人で戻った。
足を投げ出してテレビをぼんやり見ながら先に汗を流そうかと考えていると、広子さんがやって来て、隣の部屋を指さしながら言う。
「先、ご飯食べたいって言うから、あっちの部屋で、一緒でいい?」
師匠も部屋に戻ったのか。もちろん従うほかはない。
広子さんもその僕らの間の力関係というか、雰囲気を、すでに理解している様子で、一応確認というポーズを取っているだけのようだった。
その後、師匠の部屋にお邪魔し、テーブルに向かい合っていると「失礼します」と女将が広子さんを伴って入ってきた。
そして目の前に、色鮮やかなお膳が並べられる。
紹介してくれたお婆さんの口添えが効いたのか分からないが、期待以上の食事にありつけた。
山菜の天麩羅など山の物が多かったが、普段美味しいものを食べつけない僕ら貧乏学生にはどれも過ぎた料理ばかりで、二人とも何度もご飯をおかわりして給仕してくれた広子さんを呆れさせた。
師匠は最後に茶碗に残ったご飯にお茶を注ぎ、白菜の漬物を乗せてからかき込んだ。そしてようやく人心地がついた、という表情で箸を置く。さすがに晩酌はなかった。師匠はそれが少し物足りなそうだった。しかしこれからが仕事の本番なのだ。
そこへ頃合を見計らった女将が部屋に戻って来た。
「いかがでしたか」
そう訊かれて、二人とも素直に料理を褒めた。温泉地としてはあまり有名ではないこの土地で、旅館を三代に渡って続けられているのもこうした付加価値があるからかも知れない。
「少し、いいですか」
師匠は改まった口調で女将に問い掛けた。
「はい」
女将は広子さんにお膳を片付けさせながら、着物の裾を綺麗に整えながらテーブルの脇に正座をした。
そんな風にされるとこちらも落ち着かず、僕は思わず座布団の上に正座で座りなおす。師匠は気にしない様子で、あぐらをかいたまま女将に話しかけた。
「若宮神社は、この先の貯水池を作った高橋永熾が勧請した神社ですか」
「ええ。そう聞いております」
高橋家はその後、息子の代で別の戦国武将に攻め滅ぼされたのだそうだ。それ以来、この地は徳川幕府が開かれるまで、何度も支配する武将が変わっていった。
すらすらと喋る女将からのその言葉の端々から、かなりの教養のほどが窺える。
感心しながら聞いていると、師匠は少し考えるそぶりを見せた後、話題を変えた。
「この裏山ですが、もしかして大規模な土砂崩れが起きたことがあるんじゃないですか」
女将はハッとした表情を見せる。
ついさっき、山から戻って来て「期待はずれでした」なんて言っていたくせに、結局訊くのか。
それにこの部屋で仕事の話をすると主客が逆転してしまう、なんて言っていたのに、もうめんどくさくなったのか。
半ば呆れながら師匠と女将の会話に耳を傾ける。
「ええ。私が小さいころですから、もう三十年以上前になるでしょうか。このあたりに記録的な大雨が降ったことがございまして……」
降り止まないどころか、ますます勢いを強くする雨に、子どもながらなにか大変なことが起きているということは分かったのだそうだ。
その日、折からの大雨のために『とかの』に客はいなかったのだそうだが、旅館中をみんながバタバタと落ち着かずに動き回り、夕方ごろには父親と、まだ健在だった祖父とが血相を変えて「裏山を見てくる」と雨具を被って出て行った。
近くの他の家からも大人が何人か雨の中に出てきて、山の方へ向かったようだった。
恐る恐る玄関から外を見ていると、滝のように轟々という音を立てて降ってくる雨の中から「川には近づくなよ」という誰かの声が混ざって聞こえた。
しばらくすると、ふいに地響きのような音が雨空に唸りを上げた。それは耳を塞いでも聞こえてきた。恐ろしい音だった。
住み込みの男性従業員が「崩れたんじゃないか」と叫んで、雨の中に飛び出していった。
父と祖父のことが心配で、気がつくと自分も外に出ていた。バケツをひっくり返したような大粒の雨が絶え間なく上空から落ちてくる。その雨の中を合羽も着ずに走った。視界は悪く、片手で額を覆っても目を開けることが困難だった。
山の方から大人たちの大声が聞こえてきた。「崩れた」「危ない」という言葉が聞こえた。
その中に、父と祖父の声もあって、ホッと胸を撫で下ろした。
安心すると、「見つかったら叱られる」ということに気がつき、「早く戻らないと」と引き返そうとした。
その時、ふいに桜の木のことが頭に浮かんだ。枝川の土手にある桜だ。土手の壁面から斜めに生えていて、増水した時には根元が水に浸かるんじゃないかといつも心配していた。
思わず川の方へ足を向けた。
降りしきる雨の中、目を凝らしても桜の木は見えなかった。このあたりのはずなのに。流されてしまったのだろうか。
土手に近づいて川の方へ目をやると、今までに見たこともないような濁流がうねりを伴って川上から川下へと流れていた。
恐ろしくて足が動かなかった。雨音と川の奔流の音で耳が痛い。
全身を鉛のような雨粒に叩かれながら、猛り狂う川の流れから目を離せないでいると、狭い視界の端に、不思議なものが映った。
物凄い速度で流れていく泥水の中に、真っ黒い動物の身体が見えたのだ。その胴体は途方もなく長く、波打っていて、濁流に乗り目の前を通り過ぎようとしていた。
蛇だ。
それも、胴だけで一抱えもある、とてつもない大蛇。その身体が怒り狂うようにうねりながら大雨と濁流の中を流れて行く。
息を飲んでその行方を見守る。遥か彼方へその姿が消え去ってもしばらくその場を動くことができなかった。
「なにしてる、こんなとこで」
怒鳴り声とともに祖父に手を掴まれた。なかば引き摺られながら『とかの』に向かっている間、「おじいちゃん、蛇が、蛇が」と喚いた。
祖父はギョッとした顔をしたが、「変なことを言うんじゃない」と叱りつけた。
『とかの』に戻ると、祖父がここは危ないので小学校へ避難すると宣言し、全員で雨の中を逃げた。
その間中、自分の頭の中には、のたうつ大蛇が川を流されていく姿が何度も繰り返されていた……
語り終えた女将は、我に返ったように慌てて「おかしなことを申しました。子どものころに見た幻でございます」と付け加えた。
師匠は興味津々という顔で、「その後はどうなりました」と尋ねた。
「ええ。幸い、山が崩れたのは川側の方だけでして、結局旅館の方は大丈夫でした。その後、役場が委託した調査会社の方が調べたところによると、今後また万が一土砂崩れがあっても、やはりこの『とかの』の方へは崩れてこないということでしたので、ご安心ください」
ちゃんと、忘れずにフォローもしている。なかなか抜け目ない人だ。悪い噂などどこから広がるか分からないのだから。
「その、大雨の日の土砂崩れの前にも、やっぱり裏山には神社の跡などはなかったんですね」
「ええ。なかったはずです」
「わかりました。ありがとうございます」
師匠はあっさりとそう言うと、女将の祖父のことや先代である父親のことをあれこれと訊いた。
祖父はもちろんだが、父親も母親ももう亡くなっていた。そして入り婿であった女将の夫、つまり楓の父親も十年ほど前に病気でこの世を去ったのだそうだ。
師匠はこの戸叶家の事情をおおよそ訊き終えて満足したのか、最後に「では、今夜はわたしと、この助手とで夜中じゅう、交代で番をします」と言った。
他の客が寝静まってから、これまでに神主の霊の目撃が多かった場所を中心に見張るというのだ。
「もしそれまでに出たら、とにかくすぐにわたしに知らせてください」
女将は、「従業員もすべて承知しておりますので、よろしくお願いします」と言って頭を下げた。
お茶をいれなおしてから女将が部屋を出て行った後で、師匠はニヤリと笑って言った。
「こいつは、カナヘビちゃんだぜ」
カナヘビ?
なぜここでカナヘビが出てくるのか。
その意味を訊いても、はぐらかすように「風呂風呂、風呂に入ろう」と手を叩くだけだった。
◆
「ねえ、あれ彼氏?」
「違うよ」
「うそぉ」
「まじで」
……
そんな黄色い声が頭の向こうから聞こえて来る。
露天風呂だった。
和雄の言うとおり、広々としていてなかなか良い湯だ。そんな所を一人で占拠するのはなんとも言えない良い気分だった。
岩に頭をもたせ掛けて空を見上げていると、ざぁー、と身体を流す音が遠くから微かに聞こえる。頭の先には竹を組み合わせた壁があり、その向こうには女性用の露天風呂があるはずだった。
湯気が夜空に上っていき、澄んだ空気の果てにある星をゆらゆらと隠していく。
寒空の下、顔は冷たいのに、身体だけは温かい。いつもはシャワーばかりでお湯につかるという習慣がない僕だったが、こういうのもたまには良いものだ。
「ねえ、ほんとに彼氏じゃないの」
「ほんとだよ」
消極的な見栄を張った僕とは大違いだ。
ズルズルと背中を滑らせ、そのまま頭の先まで湯の中に沈み込んだ。頭の芯まで熱が入り込んでくる。
「彼氏じゃないのに、旅行してんの?」「なんかそっちの方がやらしい感じ」などという声が水を通して聞こえてくる。
師匠はさっそくOL四人組と仲良くなったようだ。師匠は今二十四歳のはずだから、同い年くらいか。
そうだよな。普通なら働いている年齢なのだ。それどころか子どもがいてもおかしくない。
湯の中に沈みながら、一人でそんなことを考えている。
師匠からはあまり、大人の女、という感じを受けない。子どもがそのまま大きくなったようだ。
なんだっけ。生物学上で、こういうのを。ウーパールーパーとかサンショウウオがそうだよな…… 思い出した。ネオテニーだ。幼形成熟、だったっけ。
まあ師匠の場合、あくまでその性格上の話だが。
頭の中でサンショウウオの姿がぐねぐねと変形し、図鑑で見たカナヘビの姿に変わった。
こいつは、カナヘビちゃんだぜ。
湯から顔を出して、師匠の言葉を反芻する。
女将が見たという大蛇はなんだったのだろう。あの枝川にはそういう『主』の言い伝えは特になかったそうだ。では一体?
大雨。土砂崩れ。大蛇。
あの裏山で師匠が見つけた石に刻まれていた不思議な雨冠の漢字となにか関係があるのだろうか。
そしてそれはこの神主の霊が出るという事件と関係があるのだろうか。
真剣に考えを巡らせていると、また女湯の方から嬌声が上がった。
「もうヤったの?」
「やってないよ」
「うそぉ」
「まじで」
動揺した僕は湯の底についていた手を思わず滑らせてしまった。バシャンという音が立つ。
「ねえ、隣で聞いてるんじゃない」竹で編まれた壁の向こうからの声。続いて、キャーキャーという笑い声。
もう出よう。
僕はいたたまれなくなって露天風呂から上がる。ドアを開けて大浴場の方へ戻ると、頭の禿げた父親と小学生くらいの息子が身体を洗っていた。もう一組の泊り客の家族だ。
「こんばんわ」と挨拶をして脱衣所へ向かった。
出なかったな。
和雄が神主の霊を見た、という露天風呂だったがそれらしい姿も気配も、なにもなかった。
浴衣に着替えから廊下に出て、「湯」と書かれた暖簾の前に置いてあった藤製の長椅子に腰掛けて、なにをするでもなく、ただ湯あたり寸前にまで火照っていた身体を冷ましていた。
しばらくぼうっとしていると、師匠を含めた女性陣がもう一つの「湯」と書かれた赤い暖簾の下からわらわらと出てきた。
「あ、やっぱりいた」
なにがやっぱりなのだ。
OLたちはあっちに卓球台があったから、みんなでやりませんか、と誘ってくる。
あ、いいな。卓球は久しぶりだ。温泉に来るとどうしてこんなに卓球をやりたくなるのだろう。
その騒々しい一角に、タオル類を満載した台車を押している勘介さんが通りがかった。
じっとりと睨むような目つきで僕らのそばを通り過ぎる。
『観光気分か……!』
そう詰られたような気がした。
「ああ。ええと、わたしたちは遠慮しとくよ。な」
師匠に話を振られて「はい」と返事をする。
「じゃあさっきお願いしたとおり、オバケっぽいのを見たら教えてね」
師匠はOLたちに手を振りながら僕を引っ張っていく。
それから僕らはまた旅館中を視察して回った。中庭や裏の駐車場を含めて見て回ったのだが、昼間と同じで特に異変は見当たらなかった。
仕方なく一度師匠の部屋に戻り、なぜか備え付けてあった将棋盤を見つけたので二人でパチリパチリと指しながら、今日あったことを確認する。
「なんなんでしょうねえ、神主の幽霊って」
「さあなあ。見てみないことにはな」
「あの、裏山の石に書かれていたっていう漢字となにか関係があるんですか」
「さあなあ」
師匠は気のないような素振りで情報を秘匿していた。明らかになにか掴んでいるような感じなのだが、いつものようにもったいぶっている。
「おい、これちょっと待った」
「二回目ですよ」
「いいから」
溜め息をついて、銀が元の位置に戻るのを見逃す。勝負に熱くなってきて前のめりになった師匠は膝を立てて身体を前後に揺すり始める。僕はとうに勝負の見えている将棋よりも、その浴衣の裾が気になって仕方がなかった。
そんなことをしていると、ドアをノックする音が聞こえた。返事をすると広子さんがお盆にケーキを乗せてやってきた。
「残ったから、あげる」
そして、あたしもう寝るから頑張ってねえ、と言いながら去っていった。
クリスマスケーキが二切れ。師匠は脳天から真っ二つにされたサンタクロースの半分が乗っかっている方を取った。硬そうな砂糖菓子なので、切る過程でかなり胴体が生地にめり込んでいる。
それから師匠が紅茶を淹れて乾杯をした。
メリークリスマス。
今ごろ街を華やかに彩っているであろう、赤と白の二色とは縁遠い、地味な和室の中だったけれど、少しだけ気分が出た。素直に広子さんに感謝する。
ケーキを食べ終わると師匠は言った。
「さきに寝ろ」
朝まで交代で番をするから、と。
時計を見ると夜の九時だった。師匠の案では九時から日付の変わった深夜二時までの五時間が師匠の番。そして二時から朝六時までの四時間が僕の番ということだった。
「僕は別に徹夜でもいいですよ」
そう言ってみたのだが、「一晩で済むとは限らない。いいから先に寝ろ」との仰せ。
「わかりました。でもどうして僕の番が六時までなんです」と訊くと「ここは時の鐘が鳴るって言ってたろ」と返された。
そう言えば、訊き込みをしていた時に女将か誰かがそんなことを言っていた気がする。貯水池を見に行っている時にもその鐘の音が鳴っていた。
今のような時計のなかった時代には、庶民が時刻を知るために時の鐘と呼ばれる仕組みがあった。寺や神社の鐘つき堂などで毎日決まった時間に鐘がつかれるのだ。
明け六つであれば六回、昼九つであれば九回という具合に。それを聴いて、人々は仕事や生活の区切りとしていた。例えば昼に八回鐘が撞かれる昼八つであれば現在の午後二時ごろを指すのだが、その鐘を聴くと一度仕事に休憩を入れ、その間に疲労回復のための甘い物などを取る習慣があった。これが今の「おやつ」という言葉の語源だそうだ。
この松ノ木郷ではくだんの若宮神社に時の鐘があり、今でも一日のうち明け六つ、昼九つ、暮れ六つの計三度、時を告げているのだそうだ。それぞれ朝六時、昼の十二時、そして夕方の六時に。その鐘の音はこの『とかの』へも聞こえてくる。
「こういう、境界を表したものは、古い霊魂には強く影響するはずだ」
師匠は言う。
夕暮れは「誰そ彼(たそかれ)」とも言い、向こうにいるのが誰なのか分からない、という薄暗さを、そして不安な感じを表している。そして日が落ちきってしまえばそこからはもう人の世界ではなく、魑魅魍魎や悪鬼の類が闊歩する夜の世界へとがらりと変わってしまうのだ。
同じように夜明けのころも「彼は誰(かはたれ)」と言い、向こうに立っているのがいったい誰なのか判然としない、という不安さを表しているのだが、それはやはり夜に住まう人ならぬものたちの支配する時間と、昼に生きる人間たちの支配する時間との境界に位置する時間帯なのだ。
「鶏の鳴き声を耳にして退散する鬼の話を聞いたことがあるだろう」
それは鶏の声そのものに怯えたのではなく、夜と昼の境界を越えてしまったことを知って鬼は逃げ出すのだ。温かい湯を止まり木の中に流し、無理やり目を覚まさせて鳴き声を上げさせ、まだまだ夜は明けないにも関わらず、鬼を退散させてしまう話もあった。
その鶏の声の役割を果たすのが、この土地では明け六つの鐘というわけだ。
「鐘の鳴った朝六時以降はまず出ないな。今日集めた目撃談でも、暮れ六つより前に『出た』という話はなかった」
出るのは暮れ六つから、明け六つの間の時間。
つまり、土地の習慣に呼応した古風な霊である可能性が高い。
そう言って師匠は盤上の詰んでしまった自分の王将を爪で弾いた。
「とにかく、もう寝ろ。二時になったら起こしに行くから」
そう言って追い出された僕は自分の部屋に戻り、歯磨きをしてから敷かれていた布団に潜り込んだ。明かりの消えた部屋の玄関のドアから小さなノックとともに師匠が顔を覗かせて「今夜は出ないかもな」とぼそりと言った。
「え?」と訊き返そうとすると、「じゃあ見回りに行ってくる」と言ってそっとドアを閉じた。
◆
どれほど眠っただろうか。
長時間電車に揺られ、旅館の中を歩き回ったり、山に登ったりという今日一日の疲れがどっと出た僕は、布団に入って目を閉じたとたんに眠りに落ちてしまった。
静かだった。
夢を見ていた気がするが、いつの間にか遠い土地の旅館の一室に横たわっている自分がいる。
身体が重い。疲れがまだ取れていない。
静かだ。そして暗い。
暖房が効いている。部屋の中は滑らかな暖かさに包まれている。しかし外は冷え込んでいるだろう。
冷たい空気が建物を握り込むようなミシミシという音がどこからともなく聞こえてくる気がする。
何時だろうか。
交代の時間はまだか。また眠気が忍び寄ってくる。
静かだ。
天井が高い。見慣れない天井だ。ここはどこだ。
誰かいる。
部屋の隅に。
誰かが立っているのが分かる。
静かだ。息を吸う音。そして吐く音すら聞こえない。
誰だろう。
仰向けのまま身体が動かない。
重い。石を乗せられたようだ。
部屋の中には自分しかいない。それも分かる。
なのに誰かが立っている。
首を動かそうとする。部屋の隅を見るために。
重い。油が切れた機械のようだ。首の関節の間に、小さな無数のゴミが詰まっている。
どうして黙っているのだろう。
ごとり。
首が落ちた。
ような音が。
みしりと、隅から一歩踏み出す音も。
ごとり。
また首が落ちた。
みしり。
また一歩。
ごとり。
みしり。
ごとり。
……
近づいてくる。そのたびに首が落ちる。
落ちた首が畳の上を這うように転がる。いくつもいくつも。
そんな音だけ。
布団の端を誰かが踏んだ。
ぼとり。
掛け布団の上に何かが落ちた。
首が動かない。動け。動け。
逆へ。
逆へ、動け。
見たくない。背けたい。
見たくな
「おい」
身体を乱暴に揺すられた。
「あ」眩しい。人工の光が目に飛び込んでくる。
師匠の顔がある。
「交代だ」そんな言葉が聞こえる。
目が覚めた。
旅館の部屋だ。眠っていたのか。
「寝ぼけてるな。お茶でも飲め」
布団から身体を起こして、師匠が入れてくれた湯気の立っている熱いお茶を口に含む。
はあ。
頭が覚醒していく。さっきのは夢か? 夢だとするならば、目覚めた夢。経験上、そんな夢は疲れている時によく見る。そして悪夢であることが多い。
「誰か部屋にいませんでしたか」
「いや」
師匠は眠そうに欠伸をすると、深い息を吐いて「もう寝る」と言った。部屋の時計を見ると、夜中の二時を少し回っていた。
「寒み」
と言って、師匠が僕の布団に入ってくる。
「ちょ、ちょっと」
慌てていると、「なにがちょっとだ。早く出てけよ」と、布団から蹴り出される。
「自分の部屋で寝てくださいよ」
「うるさいな。さっきまで玄関と外をうろうろしてたから、寒いんだよ。布団暖め係、ご苦労」
しっしっ、と手で追い払われる。
僕は仕方なく立ち上がり、大きく伸びをする。「なにか出ましたか」布団に包まった師匠にそう問い掛けると、「いんや」との答え。
僕は溜め息をついた。師匠が番をしている間に、なにか起きるような気がしていたのに。この人の中の普通ではないなにかに、引き寄せられるように、だ。
浴衣を脱いで服に着替えていると、布団の中から声が掛かる。
「でも、なにかいるぞ。ここには」
え。なにか感じるんですか。そんな言葉を口にしようとしたが、ふぅ、という布団の中からの疲れきった吐息に会話を拒絶される。
身支度をしてドアを開けようとしたとき、「気をつけてなぁ」という眠そうな声がもぞもぞと聞こえた。
廊下に出ると、少し気温が下がった。部屋の中よりも空調が効いてないのだろう。天井の大きな蛍光灯は消えているが、その横の小さな黄色い電球にほんのりと明かりが灯っている。裸足のまま履いたスリッパが足の甲に張り付くたびにひんやりとした感触がある。
二階は全部で六部屋ある。今夜は僕と師匠の二部屋しか使われていないはずだ。念のために残りの四部屋の前に立ってドアをノックし、それぞれノブを回そうとしてみたがどちらにも鍵が掛かっていた。
廊下を進んで一階へと降りる階段に足をかける。折り返しの踊り場で首だけを伸ばして階下を覗き見ると、その先の薄暗い廊下には人の気配はまったくなかった。
恐々と下に降り、移動できる範囲で周囲を見て回る。一階には事務室の奥に従業員の仮眠室があり、仲居が寝ているはずだが、井口親子は本館のそばの離れに住んでいるはずだった。
そして本館のすぐ裏には戸叶家の住宅が接していて、女将や楓はそこで寝ているはずだ。昔は家族は多かったはずだが、二人いたという女将の弟もそれぞれ独立して家を出てしまっていて、四年前に楓の祖母を亡くしてからは、母子二人だけの暮らしになってしまったという。
さぞ寂しいことだろう。
そんなことを思いながら事務所の中を覗いてみると、電話機に接続されたFAXが受信可能な状態であることを示す緑色のランプがチカチカと灯っていて、その光だけが暗い部屋に瞬いていた。
遠くから換気扇を回すモーター音が聞こえる。大浴場の方だろう。
そっちも見に行かないと。
そう思ったが思いのほか億劫で、後にしようかと玄関ロビーのソファーに腰掛けると、そのまま立ち上がりたくなくなった。
不思議なものだ。
ついこの四月に、普通の学生生活が始まったばかりだったのに、いつの間にこんな遠くの温泉宿に泊まりに来て、深夜に誰もいない玄関で得体の知れないものを見張るようなことになってしまったのだろう。
空調の機能を時間帯で落としているのだろうか。肌寒さを感じながらしばし物思いに耽っていると、ふいに玄関の外からなにかの物音がした。
どきりとして立ち上がり、恐る恐る玄関の自動ドアにかけられたカーテンの隙間から外を覗き込む。
旅館の敷地の中の、背の高い街灯が丸い明かりを灯しているその下に、なにものかが動く影が見えた。
自動ドアは、電気スイッチが切れている。しかし僕らがそこからも外に出られるように、今晩だけはロックがされていないはずだった。
二枚の厚手のガラスが合わさるその隙間に指先を入れ、力を込めるとドアは手動でわずかずつ開いていった。
瞬間、冷気が顔に吹き付けてくる。通り過ぎようとした人影がびくりとしたように立ち止まる。
「楓さん」
声を掛けられた相手はスクーターを押して歩いていたところだった。
「わ、びっくりした」
それはこっちのセリフだ。まだ帰ってなかったのか。もう時刻は二時半を回っている。
「今夜は寝ずの番なの? あの人は?」
「交代で番をしてるんですよ。今は部屋で寝てます」
そばに近づくと、アルコールの匂いがした。
「飲酒運転」
そう言って指でバツを作ってやると、「堅いこと、言いっこなし」と楓は笑った。それから声をひそめて、しばしのあいだ立ち話をする。今夜はかなり楽しく遊んだようだった。
その中でふと、なんの気なしに僕は問い掛けた。
「和雄さんのこと、どう思ってんの」
女将は明らかに二人をくっつけようとしている。そして周囲もそれを追認しているようだ。もちろん和雄自身も。しかし若者にとって重大なイベント日に、女友だちとの遊びを優先した彼女の心理はどういうものなのだろうか。
楓はう~ん、としばし唸った後、ぼそりと言った。
「和にぃは、堅物すぎ」
まあ、そこが今どきの男には珍しいんだけど。そう言いながら両手の手袋を片方ずつ脱いでいく。
「もう少し強引じゃないとね。今日だって……」
そう言いかけたところで、おっと、という表情をした。
「まあ、その上の修にぃよりはまだクダケてるけど」
じゃあ、お休み。
そう言って手を振りながら楓はスクーターを押して旅館の裏手へと消えていった。表の道路と同じように舗装されているので、道が悪いわけではない。ただ客商売をしているので、深夜に帰宅する時は手前でエンジンを切ってくるのだろう。
酔ってはいても、身についた習慣があるのだ。なかなかしっかりした子に思えた。
そんでもって、脈有りだなあ、和雄さん。
僕はしばらくそこに佇んだ後、周囲になんの気配も感じないのを確認してから旅館の中に戻って行った。
空調は弱いが建物の中はさすがに寒空の下とは雲泥の差だ。生ぬるい空気の流れが周囲を包み、わずかな照明だけがロビーの椅子や置物を闇の中に浮かび上がらせている。
なにかが違う。さっきまでと。
立ち止まった僕の心臓がわずかずつ早く脈打ち始める。
なんだこの気配は。
息を殺してあたりに目を配る。なにも見えない。動くものも。静止している異物も。
そっと大浴場の方へ足を向ける。ポケットからペンライトを取り出してスイッチを捻る。暖簾をくぐり、脱衣所、浴場、露天風呂と進む。すべて出入り口のロックは外されていた。
師匠もみんなが寝静まってからこのあたりもすべて見回りをしただろうか。
ブーン…… という換気扇の音が自分の呼吸音と混ざる。露天風呂の湯はまだ温かく、湯気が寒気の中に立ち上っている。黒々とした植え込みの影がそれを囲んでいる。
なにも出ない。風呂場を出て、客室へ向かう廊下を足音を忍ばせて歩く。
窓から中庭が見通せる。どの場所も、どの場所も、神主の姿形をしたこの世のものならぬものが現れたという場所だ。
さほど広くないこの鄙びた旅館で、余りにも多くの目撃談がある。これではかえって探し辛い。どこに重点を置いて良いのか分からない。
場所ではない。場所に憑いているのでは、ない。
では一体なにに?
僕は息を殺しながらロビーに戻る。フロアの中ほどに置かれたテーブル。その椅子に腰掛けて玄関のドアの方を向いて座る。
時間がゆっくりと過ぎていく。
なにかいる。わだかまった気配が、それでも形を成さぬように煙か、あるいは水蒸気のような姿で旅館の中を蠢いているようだ。
その姿勢のまま僕は固まり、永遠とも思える時間が流れていった。
朝は、まだか。
いつの間にかそればかり考えていた。繰り返し、繰り返し、そればかり。外はまだ暗い。未だ夜に棲む住人たちの世界。
異世(ことよ)に棲まうものたちの……
…………
いる。
誰かが廊下の隅に立っている。背後に目をやらずとも、それが分かる。いつの間にいたのか。
音も立てず、声も掛けず。じっとそれは立っている。
どんな姿をしているのだろう。
身体が動かない。夢の続きのようだ。目覚めたと思っていた、あの夢の中の。
いや、自分は本当にその後に目覚めたのか。本当はずっと身体はあの和室の布団の中にいるのではないか。
ではここでこうしている自分は誰だ。
ああ、思考がぐちゃぐちゃだ。
誰だ。自分ではない。立っているのは。誰だ。
トットット…… と早いリズムで胸が脈打つ。
動いた。
近づいてくる。
ロビーの隅の暗がりから、それがゆっくりとこちらに近づいてくる。音はない。畳の上のように、その踏み出す足は音を立てない。
ただすーっと気配だけが玄関へと向かうのが分かる。
その途中に、僕がいる。玄関のドアに向かって座っている僕が。気配は止まらない。なにかが起こる。なにかが。
その予感が自分の中で膨張する。そしてそれが弾けそうになった瞬間、僕の耳は確かにその音をとらえた。
鐘の音。
遠く、そしてたなびく様な微かな音の波が乾いた空気を震わせる。
明け六つだ。境界を超えたのだ。
朝六時と決められた現在のこの土地の時の鐘は、この冬場には『彼は誰(かはたれ)』の薄明よりも早く鳴らされるのだ。
いや、外に出れば山の端の空は白みがかっているかも知れない。しかし、玄関のカーテンを閉めたロビーにいてはその微妙な時の移ろいを感じることはできない。
しかし、明け六つだ。確かに人と物の怪の世界を分ける、狭間の時間が終わったのだ。僕は全身の力が抜けるような安堵を覚えた。
鐘の音は続いた。二つ目。そしてその余韻が消え去った後に、三つ目が。それを数えながら、僕は振り返ろうとする。
さっきまであった背後の気配はとっくに消えてい……
その瞬間、心臓が止まりそうになった。
消えていない。気配は、すぐ真後ろまで来ていた。背筋の皮膚が総毛立つような恐怖に襲われる。
なんで。
頭の中にボールペンの先が目にも留まらないような高速で走る。ぎゅるぎゅるという擬音。
す…… 捨て鐘だ……っ!
なんで忘れていたんだ。僕は知っていた。知っていたのに。
明け六つの六回の鐘が撞かれる前に、これから時を告げることの先触れとして、鳴らされる鐘があった。三回の捨て鐘。つまり明け六つは九回鐘が鳴らされるのだ。その最初の三回は、明け六つよりも前、つまり境界の上にある時刻。それが鳴り終わるまではヒトの支配する時間ではなく、未だたゆたう、狭間の時間に属しているのだ。
背中に、氷のように冷たい気配が触れた。つま先から頭の天辺まで、なにかが走りぬけた。
鐘の音。
四回目の。
その瞬間、背後から触れた気配はそのまま僕の身体を突き抜け、突き抜けながら消えて行った。明け六つの始まりと同時に。
その気配は視覚的には全くとらえることはできなかった。しかし確かに、なにか得体の知れないものが、消えながら玄関の外へ向かうのを感じていた。
その気配に突き抜けられた部分の体温が根こそぎ持っていかれたような気がした。いや、体温だけではなく、生気というか気力というのか、なにかそういうものもベリベリと剥ぎ取られたかのようだった。
気配が完全に消え去り、九回目の鐘の音を聞き終わっても僕はその場で動けなかった。椅子に腰掛けたまま、悪寒が全身を駆け回るのをじっと感じている他なかった。
「おい」
いきなり後ろから肩を掴まれる。師匠がいつの間にか息を切らせて後ろに立っていた。「出たのか」と訊かれて必死で頷く。師匠は舌打ちをすると、周囲を警戒するように見回す。
あのなにものかの気配を感じて布団から飛び起き、そのまま部屋から走ってきたのだろうか。
「神主か」
「たぶん」
はっきりは分からなかったが、最後に本物の明け六つの始まりと同時に消え去りながら、その瞬間に神主の着るような装束を身に纏っているのが見えた気がした。そのことを切れ切れに説明する。
「そうか。後で状況を詳しく教えてくれ。とりあえず部屋で休め」
ヒューヒューと胸の真ん中から体内の空気が抜けていくような錯覚があった。
「大丈夫だ。すり抜けただけなんだろう? 襲われた感じでもないしな」
そう言いながら師匠はズボンのポケットから金属製の薄いケースを取り出した。さらにその中から半紙を畳んだようなものを摘み出す。
「これ飲んで寝ろ」
蓋の形に折り込まれた部分を捲ると、中には粉薬のようなものが詰まっているのが見えた。
「なんです、これ」漢方薬のようなものだろうか。
「言ったらプラセボにならないだろう」
言っているし…… 偽薬と。
ともかく僕は師匠からその薬を受け取り、コップに汲んできてくれた水で喉に流し込んだ。苦かったが、気のせいか悪寒が溶けていくような感じがした。
少し楽になって、なんとか立ち上がり、二階の階段に足をかけた。そのとき玄関フロアの明かりが完全に灯り、「おはようございます」という声とともに女将がフロントの奥から顔を覗かせた。
僕は蚊の鳴くような返事をして、師匠が女将に何ごとか話かけるのを尻目に階段を上がり、眠るために部屋に戻っていった。
目が覚めたのは朝の九時過ぎだった。
まだ頭が重く、肌触りの良い布団から出るのは億劫だったがなんとか気合を入れて起き上がった。三時間ほど寝ていたらしい。
広い部屋の真ん中に布団が一組だけ敷いてあるのを改めて眺めると、凄く贅沢な気分になる。大きな窓のカーテン越しに朝の光が部屋の中に射し込んでいる。浴衣の襟のあたりを掻きながらそちらにぼうっと目をやる。
それから自分の身体の様子を確かめたが、特に異常はないようだ。あの謎の薬が効いたのだろうか。
部屋を出て師匠を探すと、一階の玄関ロビーでOL四人組と話をしていた。見るとみんな荷物を持っている。もうチェックアウトするところらしい。
「結局オバケ出なかったなあ」
「なにつまらなそうに言ってんのよ。一番ビビッてたくせに」
「ああもう。変な噂聞かなきゃ良かった! あんま寝られなかったわ」
「でもさ、ちょっと見てみたくなかった?」
OLたちは朝から元気に声が出ている。師匠は笑ってそれを聴いているだけだ。
「じゃあねえ。年下の彼氏くんも、バイバイ」
そんなことを言いながら彼女たちは僕らに手を振って、外にとまっていた旅館のバンに乗り込んでいった。旅館の中が急に静かになった。
勘介さんが運転するバンがゆるゆると発進していくのを見送ってから、僕は広間に用意されていた朝飯を食べた。焼き魚を中心としたシンプルなメニューだった。しかし温泉たまごが小皿についていて、それがやたらうまそうに見えて、先に食べるか、最後にとっておくか悩んでしまった。
もう一組の親子連れももうチェックアウトした後だったので、客は僕と師匠しかいなくなったことになる。いや、もう客を装う必要もなくなったわけだ。
先に朝食をとり終わっていた師匠に、僕が体験したことをこと細かく説明しながら最後の温泉卵を残ったご飯の上に乗せて、小瓶に入った、だし醤油を垂らす。
「四回目の鐘で消えたか」
「はい」
味付け海苔の袋を裂いて、さらにその上に千切りながらトッピングする。それを勢いよくかき込んでいると、師匠が言う。
「捨て鐘の意味も理解しているということは、やっぱりこの土地の霊だな。昨日今日やってきたような浮遊霊の類じゃないのは間違いなさそうだ」
さらりと言った言葉の中に、師匠の思想が一本の楔のように通っている。
師匠は霊の在り方に普遍的なものをあまり認めない。「死後の霊魂とはこういうものだ」という生前の記憶がその存在の濃度、そして特性を規定するのだ、という思想。例えば足のない幽霊画が広く知られている日本では足のない幽霊が現れるが、そんな発想のない外国では幽霊にしっかりと足があるものだ。境界を越えたことを告げる明け六つの始まりのタイミングを正確に分かっているからこそ、そういう消え方をしたのだ、と言っているのだ。
「食ったら、行くぞ」
「はい」
お茶を胃袋に流し込み、口を拭いた。これから若宮神社に行くのだ。テキの本丸かも知れない場所に。そう思うと少し緊張してくる。
連れ立って広間を出ると、事務所にいた女将をつかまえる。
「今夜カタをつけるつもりです」
師匠は真剣な表情でそう切り出した。女将が訊き返すと、やはり同じ言葉を繰り返した。「今夜です」
それに対し、女将はやんわりとした言葉で説明を求めた。
「今日は、泊り客がいないはずでしたね」師匠は説明の代わりに、そう訊ねた。
「ええ」
この依頼のこともあって、大晦日までなるべく宿泊客をとらないようにしていたらしい。OL四人組やもう一組の親子連れのようにかなり前から入っていた予約の客だけはどうしようもなかったが、そんな客も今夜はいないということだった。
昼から他の従業員も休みになり、『とかの』には女将と井口親子だけになるのだという。
確かに今夜はこの旅館に憑りついた霊と対決するには絶好の場面と言えそうだが、いったい師匠はそのカタをつけるためのどんな見込みがあるというのだろうか。
そう思いながら横顔を見ていると、師匠はズボンのポケットを探り始め、折り畳まれた半紙を取り出す。
「ここに書いてあるものを用意してください。重要なことです。できますか」
女将は渡された半紙を怪訝な顔で見つめる。
「だいたいご用意できると思いますが……」そう言いながら、書かれている後半部分に目を留めて困惑したような表情を浮かべる。
「ああ、最後のは若宮神社にあるでしょう。自分が借りに行きます。それで、済みませんが今から電話をしてくれませんか、貸していただけるように」
「分かりました」
女将は電話をかけに行き、ほどなくして戻ってくる。
「いつでもお貸しできるそうです」
「ありがとうございます。ではさっそく今から若宮神社に行ってきます。正直どうなるか、まだ手探りな状態です。が、なんとかして見せますよ。これでもこの手のことは専門家ですから」
師匠はそううそぶいて、下手な安請け合いをした。
「お気をつけて」
女将は期待しているのいないのか分からないような良く統制された表情で、そう頭を下げた。
しかし、何気なく発した自分の言葉になにか思い至ったかのようにハッとして口元を抑えた。なにか不吉なものを感じたのだろうか。気をつけなくてはらないなにかが待っていると? なんだかこっちまで怖くなってくる。
神社までは歩いて行くのかと思ったが、女将が自転車を貸してくれた。宿泊客用に何台か旅館に備えているらしい。
建物の裏手の駐車場から二台を選んで玄関まで回してくる。
「昼ご飯は、いりませんから」
師匠が女将にそう告げた。
「神社で話を聞いた後、調べものがあるのでそのまま町の図書館へ行く予定です。飯もそのあたりで食べます」
自転車に跨りながら、師匠は「楓さんは?」と尋ねた。
まだ寝ています。
女将はそう言って苦笑しながら母親の顔を見せた。「まったくあの子は」
風が冷たい。外はずいぶんと冷え込んでいる。昨日よりも気温は低いかもしれない。厚着をしてきたつもりだが、身体が縮こまりそうだ。
「行ってきます」
師匠の後に続いて出発する。玄関からダンボール箱を抱えた広子さんがこちらを見ながら指先だけで手を振っていた。また顔のパーツを変に真ん中に寄せたような笑顔を浮かべている。
つられてこちらも笑顔になる。
師匠は寄り道もせずに、昨日裏山の上から見た若宮神社のある方角へ真っ直ぐ進んでいった。師匠は車ではないときは、僕に自転車をこがせて自分はそのうしろに便乗し、あっちに行けこっちに行けと指示を出すばかりで実に良い身分なのだが、珍しく自分で自転車を運転するときはやたらとこぐのが早い。スポーツ万能と自分で言うほどのことはあり、身体能力やバランス感覚は目を見張るものがあった。
借りた自転車の微妙な性能差もあり、その師匠について行くのが精一杯で、なんとか置いて行かれないように、道端の雑草も枯れたような色合いをしている細い田舎道を、頑張ってペダルを踏み続ける。
十五分ほど走っただろうか。遠くに見えていた山が眼前に迫り、道路にはいつの間にか傾斜がつき始めていた。なだらかな山道に入り、その麓付近の集落をいくつか通り過ぎて、一際立派な木々が鬱蒼と茂っている一角にたどりついた。
「鎮守の森だな」
スギやヒノキといった常緑高木が混合林を形成しているようだ。その背の高い木々の枝葉の隙間から、木造の建物の屋根がちらちらと覗いている。
道路が広くなっている所で自転車を止め、鎮守の森の中へ足を踏み入れるとすぐに赤い鳥居が見えてきた。
「明神鳥居だ。副柱もない、一般的なものだな」
シンプルな形をしているが、古びた佇まいは森とその奥の参道を守り続ける長久の時の流れを感じさせてくれる。
「あれ。でもこないだ行った神社でこれと同じ形のを見ましたけど、春日鳥居って言ってなかったですか」
師匠は振り向くと、鳥居の上部を指差しながら言った。
「笠木を見ろ。両端が中央部に比べて反りあがっているだろう。反り増し、と言って、それがあるのが明神系、ないのが神明系の鳥居だ。春日鳥居は神明系。ていうかこないのだのとのは全然形が違うだろ。台石もあるし」
説教が始まりそうだったので、鳥居から目を逸らし、その両脇を固めるように配置されていた狛犬に近寄って「なかなか立派な狛犬ですね」と苔むしたその身体を触った。
鳥居の右側にあるそれは、厳しい顔をして口を閉じ、懐にいる小さな狛犬の頭を撫でている姿をしている。
しかし師匠はそこにもダメ出しをしてくる。
「よく見ろ。それは獅子だ」
「は?」
「頭に宝珠を載せているだろう。そっちの、頭に角が生えてる方が狛犬だ」
そう言われて反対側に配置されていた方の石像を見ると、確かに角が生えている。口は唸りを上げるように開かれ、足元の丸い玉を踏みつけている姿だった。
「元々は獅子と狛犬が一対になっているのが正式なものだが、時代が下るにつれて獅子と狛犬の区別がなくなって、今じゃ両方とも一般的に『狛犬』と呼ぶけどな。本来は社殿に向かって右側が獅子で、左が狛犬。同じく右側が口を開いた阿形、左が口を閉じた吽形。ここのは阿吽は逆配置だな。しかしこの右側は明らかに獅子の特徴を備えている」
言われてまじまじと見比べたが、普通の狛犬となにが違うのか分からなかった。
「まあどうでもいいよ。狛犬なんて神社によって千差万別だ。職人の個性であって、祀っている神様ともほとんど関係がない」
先に行くぞ。
師匠はさっさと鳥居を潜って行ってしまう。僕も慌てて後を追う。
参道は長く、その道の端には比較的小ぶりなクスノキが枝葉を精一杯伸ばして立ち並んでいる。その下を通るとチチチ…… という鳥の鳴き声が頭上から聞こえてくる。
途中で手水舎(ちょうずや)があったので、並んで口をすすいだ。
参道の奥に拝殿が見えてきた。遠くから見た印象よりもかなり大きい。玉砂利を踏みながら境内を進むと、拝殿のそばで箒を持って枯葉を掃いている男性の姿があった。
白衣の上に黒い着物を重ね着して、下は薄青い袴という格好をしている。見るからに寒そうだ。しかし男性は平然とした身のこなしでこちらに向き直り、「お待ちしておりました」と微笑みかけてきた。
この若宮神社の宮司である石坂章一さんだった。和雄の父親であり、彫りの深い顔が良く似ている。もう五十歳は過ぎていると思われるが、背筋はピンと張っていて背もかなり高い。
師匠のことはすでに女将から聞いているようだ。挨拶を交わし、さっそく本題に入る。
「とかのに現れるという神主姿の霊ですが、お心あたりはないんですね」
「はい」
章一さんは溜め息をつきながら、戸惑っております、と言った。
「和雄さんにも訊きましたが、こちらの装束が盗まれるようなことはありませんでしたね」
「ええ」
「まあ、わたしもこれが誰かのイタズラなんていう線は考えていませんが、噂に便乗した誰かが良からぬことを考えるということはありえない話ではありませんから」
拝礼をさせていただいていいですか?
と師匠は言って拝殿に近づいていく。
「御祭神は八幡神、応神天皇ですね? 作法は二拝二拍手一拝でよろしいですか」
「応神天皇と仲哀天皇、そして神功皇后です。作法はそれで結構ですよ」
師匠は賽銭を投げると、丁寧な動きで拝殿の奥に向かって二回頭を下げ、二回拍手を打ち、また一回頭を下げた。腰が九十度折れている。
僕も真似をしたが、綺麗に直角に曲げるのは上手くいかなかった。コツが要りそうだ。
「この瑞垣(みずがき)の奥が神殿ですね」
拝殿の向こうには垣根で囲われた空間があり、その中に一回り小さな本殿の姿が見えた。
「この神社は、戦国武将であった高橋永熾が勧請してきたものだと聞きましたが、それ以前からあった神社はこちらへ合祀されたのでしょうか」
「あまり古いものは分かりません。明治以降なら合祀の記録が残っておりますので社務所の方でお見せしましょう」
「では、のちほどお願いします」
師匠は境内を歩き始める。
「末社はあちらですか」
師匠の指さす先には横に長い社殿のミニチュアのような建物があった。
「手前が摂社で、仁徳天皇、日本武尊、武内宿禰などをお祀しております。末社はその奥です」
末社は一つの小さな建物で、軒の下に塗装が剥げかけた朱塗りの扉がいくつか並んでいる。
「祖霊社はありますか」
師匠の問い掛けに、当代の宮司の顔が少し緊張を帯びた。祖霊社というのは、歴代の神職や氏子の霊を祀った社(やしろ)のことらしい。
「この端がそうです」
鍵の掛かった扉の上部にかけられている額を確認しながら、師匠はその正面に立った。
歴代の神職の霊がこの中に……
その意味を考えて、少し背筋に冷たいものが走る。今朝の体験が脳裏に蘇った。
師匠は目を閉じて、そっと扉に右手を触れる。章一さんと僕が見守る前で、しばらくその格好をしていたかと思うと、ふいに肩の力を抜いてこちらを振り返った。
「違うな」
そう言い切った師匠に章一さんは驚いた顔を見せる。
彼もこんな若い自称霊能者など胡散臭い目で見ていたはずだ。ただ『とかの』に対する負い目から、女将が雇った師匠にそれなりの応対をしてくれていたに過ぎない。しかしその自称霊能者が、祖霊の仕業ではないと言ったのだ。『そういうこと』にしておけば、話がシンプルになり、やりやすいはずなのに。
「あれが時の鐘ですか」
師匠の視線の先に、鐘楼堂がある。境内の隅の方だ。
近づくと大きな鐘がお堂の屋根の下に釣り下がっている。
「鐘はあなたが?」師匠は撞く真似をした。
宮司は頷く。
「時の鐘があるのは神社では珍しいようですが、神仏習合のころの名残でしょうな」
「かなり昔からあるのですね」
「当神社が開かれたころから、と伝わっております」
「鐘自体は新しいものですね」
「ええ、これは昭和になってから鋳造されたものです。古いものはあちらに」
境内の一番奥まった場所に、朽ち果てたような別の鐘楼堂があった。打つための撞木(しゅもく)もついていない。
そちらの鐘はいかにも古そうな姿をしていた。錆が全面に浮いていて、元の色もはっきりとしない。
師匠はその古い鐘の下に歩み寄るとぐるぐると回りながら観察し始めた。
「銘はありますか」鐘の反対側から顔だけを出してそう訊ねる。
「いいえ。あった跡はありますが、欠けてしまっているようです。高橋永熾が持ち込んだ最初の鐘だと伝えられておりますのでこうして今でも保存していますが、もしかすると何代目かのものなのかも知れません」
ふうむ、と呟きながら師匠は鐘の下部を指でなぞった。そして指についた錆をしげしげと眺める。
よく見ると師匠がなぞっていたあたりはとくに錆が多い。下から数十センチにかけてぐるりと別の模様がついているような感じだった。
「なるほど」と呟いた後、師匠は章一さんに問い掛けた。「この錆がどのようにしてついたものか、伝わっていますか」
「錆、ですか」
章一さんは戸惑ったように「いいえ」と言った。
「なるほど、なるほど」と師匠は繰り返し、錆を指から払って手を叩いた。「ではその合祀の記録を見せていただけますか」
それから連れ立って拝殿のそばにあった社務所に戻った。
畳敷きの部屋に通され、しばらく待っていると章一さんが丸めた厚紙を持って現れた。
「これは写しですが」と言って広げた大きな紙には神社の祭神や由緒などが細かい字でびっしりと書き込まれていた。写しと言ってもコピーのことではない。書き写したものということだ。
「合祀の記録は…… と、ここからですね」師匠が紙を指でなぞる。
「なるほど、明治以降のものだけですね。合祀したのは七つか。社格は無しか村社…… ほとんどが祭神不詳ですね。単に『カミ』と呼ばれていた村落社会の氏神というわけだ。記載項目に境内坪数や社殿の間数、それに管轄官庁までの距離まで書いてあるということは、恐らく明治十二年の『神社明細帳』づくりための取調べの際に作成された記録でしょう」
師匠は僕に、明治の「神社整理」に関する簡単な説明をしてくれた。
どうやら明治の初期に、それまで乱立していた全国各地の様々な神社を国策として調べ上げ、仏像を御神体にしているような神社を改めさせたり、由緒も祭神もはっきりしないような小さな神社を近隣の神社に合祀させたりして統廃合を進めることで地域の神社の機能を再生させようとしたのだという。
この若宮神社もご他聞に漏れず、そうした近隣の「カミ」たちを合祀してきた歴史があった。合祀されたカミは、主に先ほど見てきた末社に祀られているそうだ。
「合祀された七社は、どれも拝殿もないような小さな神社ですね。住み込みの神主などいなかったでしょう。祭りなどの際には恐らくこちらの若宮神社から神主が出向いていたのではないですか」
師匠の推測に章一さんは頷いた。「そう聞いております」
結局この松ノ木郷では、神様に関わる行事はすべてこの若宮神社が関わっていたということのようだ。
「この若宮神社は遷宮もありませんね」
「はい。ずっとこちらに」
「とかのの周辺に分社などもないと聞いていますが」
「その通りです。ございません」
章一さんはそう言った後、慎重に付け加えた。「少なくとも私どもは把握しておりません」
師匠はしばらく社務所の天井を眺めていた。そしてゆっくりと首を戻し、「よく、分かりました」
と言って腰を浮かせた。
「ありがとうございました」
そう言って頭を下げたので、僕は驚いて袖をつつく。
「もういいんですか」
「もういいんだ。聞けることは聞いた」
おいとまします。
師匠がそう言うと、章一さんは「そうですか」と同じように頭を下げ、「あまりお力になれませんでした」と硬い表情で口にした。
社務所の玄関で靴を履いていると、章一さんが大きな布袋を抱えてやってくる。
「これを」
師匠は「あ、忘れるところでした」と言ってそれを受け取り、中を覗き込んで一つ頷いた。「どうもありがとうございます。後日返します」
「それ、なんですか」
僕も覗き込もうとすると、「お楽しみは後だ」と見せてくれなかった。ちらりと縄のようなものが見えただけだった。
「そう言えば、和雄さんは?」
話を逸らすように師匠がそう問い掛けると、「少し前にどこかへ出かけましたな」との返事だった。
また『とかの』に手伝いに行ったのかも知れない。まめなことだ。
「この神社は、ご長男の修さんが継がれるんですか」
「いやいや、まだまだ」
そう言って章一さんは手を振ったが、相好を崩している。自慢の息子のようだ。跡継ぎ不足に悩む神社は多いのだろうが、皇學館まで行った息子がいると、まずは一安心というところだろう。
もう一度お礼を言って、僕らはもときた参道の方へ向かう。
鳥居のところまで見送りをしてくれた章一さんの姿が小さくなり、最後に軽く会釈をして自転車を置いてある場所まで歩いていった。
その途中で師匠が呟く。
「もう少しで全貌が見える」
もう少しもなにも、僕には肝心の若宮神社でほとんど収穫がなかったようにしか思えなかった。
師匠はニヤリと笑うと、「さあ次だ」と言った。
◆
自転車をこいで西川町の中心街まで出てきた僕らが次に向かった先は図書館だった。
「裏を取るぞ」
師匠はそう言って郷土史のコーナーから本を抱えて閲覧室の一角に陣取った。そして西川町の変遷や若宮神社の歴史などを片っ端から調べていった。
どちらもこれまでの情報の詳細や再確認といったものばかりで、なにか今回の事件に関係していそうなものは見当たらない。
飽きてきて上の空になり始めた僕を尻目に、師匠は楽しそうに頁を捲り続けている。
「お、見ろ。亀ヶ淵のことが載ってる」
あの道路沿いの貯水池のことか。
紙が変色しかかった古い本に、白黒の写真とともに貯水池の歴史が記されていた。
「あんまり詳しくないな」
ぶつぶつ言いながら師匠は顔を近づけて読んでいる。
戦国武将の高橋永熾がこの大規模な土木工事を行った背景と、その効果がどのようなものであったかが、簡単に説明されていた。
かつてこの枝川沿いには亀ヶ淵という名前の沼地があったそうだ。そこを新たに掘り抜いて溜め池として補強し、川から水を引いてくるという工事の工程が図解とともに示されている。
ふんふん、と鼻を鳴らして読んでいた師匠が「うん?」と唸った。
「亀ヶ淵の横に、括弧してショウガブチとカタカナで書いてあるな」
「そうですね」
別の項ではちゃんと「カメガブチ」と振り仮名が振られていたので、読み方としてはカメガブチが正しいはずだ。というかそれ以外読みようがない。
ということはショウガブチというのは別名なのだろうか。
「ショウガブチ…… ショウガブチか。あのあたりではショウガでも採れるのかな」と師匠は首を捻る。
そう言えば昨日の夕食で、山菜の天麩羅の中に薄く切ったショウガを揚げたものがあった。名産なのかも知れない。
その味を思い出すと、口の中に幸せな感触の記憶があふれてくる。今日も旨いものにありつけるのだろうか。
僕が舌なめずりをしていると、師匠は立ち上がって、近くで本を広げていた六十歳過ぎくらいの男性に声をかけた。地元の人のようだった。農協のロゴの入った帽子を被っている。
「このあたりはショウガをやっていますか」
「いんや。ショウガなら隣町だなぁ」
「昔はやっていたんでしょうか。ここに、亀ヶ淵のことをショウガブチと書いています」
「うん?」
男性は老眼鏡の位置を直しながら本を覗き込んだが、首を捻っている。
「あの溜め池は、ショウガブチなんて呼び方、しねえけどなあ」
そう言いながら近くにいた知り合いの老人に本を見せると、やはり同じような答えが返ってきた。
どうやらショウガブチという呼び名は一般的ではないようだ。もしくはもう廃れた古い名前なのかも知れない。
「ありがとうございました」
師匠はお礼を言って本を抱えると、僕に目配せをした。他の本も片付けろ、と言っているらしい。
「もういいんですか」
「うん」
スタスタと歩き出した師匠を追いかける。
「ショウガブチでなにか分かったんですか」
「たぶんな」
また自分一人理解したという顔ですましている。いい加減じれったい。
「教えてくださいよ」と食い下がると、やれやれとばかりに溜め息をつきながら師匠は指を立てた。
「亀という字の読み方はいくつ知ってる?」
亀ヶ淵の「亀」の字か。
訓読みだと「カメ」。音読みだと「キ」。いくつというか、これくらいしか思いつかない。
師匠は大きな辞典を本棚から取り出して、ペラペラと捲り始める。そして亀という漢字について書いてある頁を開いて見せた。
「他に、亀の手と書いて亀手(きんしゅ)とか、亀裂(きんれつ)、あと中国の西域諸国の中の亀茲(キュウシ)って国も亀の字をあてているな。それから『屈む』の屈(くつ)という字の代わりに亀の字をあてた『亀む(かがむ)』なんて言葉もあるな」
知らなかったが、色々あるものだ。
「人名だとバリエーションが多いな。そういや、わたしの親戚にも亀に司と書いて亀司(ひさし)って名前のオッサンがいたな」
しかぁし……
師匠はもう一度指を立てて左右に振る。
「亀をショウと読む例はどこにも出ていない」
「はあ」
だからなんだというのだろう。
「まだ分からないのか」
「はあ」
師匠は溜め息をつきながら首を振った。もの凄くバカにされているらしい。
「いいか。読み方が違っているんじゃないんだ。だったら、間違っているのは漢字の方だ」
「漢字、ですか」
偉そうに言われても、だからどうした、という気がしてくる。
「と、いうわけで、解決だ」
なにが解決なんだか。仮に貯水池の名前の謎が解けたところで、なんの意味もない。
そう思っていると、師匠は満面の笑みで続けた。
「神主の幽霊の謎は、解けたよ」
「はあぁ?」
唖然とした僕の肩をぽんぽんと叩いて師匠は、「さあ、もう少し詰めをするぞ」と言った。
僕はわけの分からないまま、うながされてとにかく図書館を出た。
「腹減った。飯食おう」
師匠が俊敏な動きであたりを見回し、食事のできそうな店を見つけ出した。その喫茶店の前に来ると、どこかで見覚えがあるようなバイクが一台だけ止まっていた。
右のハンドルにヘルメットをぶら下げている。そのヘルメットを見て思い出した。師匠も気づいた様子で、バイクを指さしながら「ししし」と口元に手をやって笑う。
ドアを開けると、からん、と音がした。
小さな喫茶店の中には数人の客がいたが、音に反応してこちらに目を向けた人の中に、見知った顔を見つける。
和雄だった。バイク姿は昨日の夕方に見たばかりだ。
「狭い町だなぁ」
そう言いながら僕らがテーブル席に近づいていくと、和雄は驚いたような顔して、そして次の瞬間、困ったような表情を浮かべた。その向かいの席には見覚えのない女性が座っている。
「参ったな」と言いながら頭を掻いた後、和雄は「妹です」と紹介した。
妹ということは翠さんか。確か楓と同い年のはずだ。髪の長いその女性が丁寧に頭を下げるので、こちらもそれにならう。楓とはタイプが違うが、なかなか綺麗な子だった。
「僕らはもう出ますけど、ゆっくりしていって下さい。ここは昼のAランチが安くて美味しいですよ」
和雄は朗らかにそう言うと、会計を済ませた後で僕と師匠に近づいてきて耳打ちをした。
「ここで僕らを見たこと、誰にも言わないでもらえますか」
?
頼みます、とばかり、拝むような仕草をする。
「いいよ」
師匠は特に気にしない様子でそう言うと、大袈裟な身振りでウェイトレスを呼び、早口にAランチを注文した。腹が減って気が急いているらしい。
連れ立って店を出て行く二人を横目で見ながら僕も同じものを頼む。疑問を感じはしたが、Aランチがテーブルに並べられるとそんなものは吹き飛んだ。あれこれ動き回って頭を使っているせいか、昨日からやたら腹が減る。
師匠と二人で、出された料理を黙々と片付けていった。
「満足じゃ」
師匠が箸を置く。そのまま楊枝を探しているようなので、僕の目の前にあった容器を差し出しながら、「神主の幽霊の謎が解けたって、どういうことなんですか」と訊く。
師匠は楊枝を一本抜き取り、口元を隠しながらこんなことを言った。
「謎が解けた、は言い過ぎかな。フーダニットはクリアになったが、ホワイダニットがいまいち見えてない」
「だから、なんですかそれは」
「まあ、とりあえず、今までの解決手段が間違っていたことが分かっただけでも十分だろう」
最後までそんな抽象的なことばかり言ってはぐらかされた。
納得できていないが、師匠が腰を浮かせたので仕方なく一緒に席を立つ。レジで師匠が領収書をくれ、と言うとウェイトレスは驚いた様子で店長を呼びに行った。普段は近所の馴染み客ばかり相手にしているから、領収書が欲しいなんて言われたことがないのだろう。僕にしてもこんな興信所のバイトをしていなければ、学生の身分で領収書をもらう機会などそうそうなかったに違いない。
厨房の方から出てきた店長が、レジの下の棚をごそごそ漁っているとようやく未開封の領収書の用紙が出てきたので、それに記入してもらった。こんな食事代も、調査費で落ちるのだろうか。
「一度戻ろう」
喫茶店を出たあと、若宮神社でもらった袋をポンと叩いてから師匠はそれを担いだ。
それからまた自転車に乗って僕らは『とかの』に戻った。相変わらず風は冷たいが、その間師匠はペダルを踏みながら鼻歌などうたっていた。随分と余裕が漂っている。
「余裕ですね」そう訊くと、「そうでもないよ」との返事。しかし、表情はやはり余裕そうだった、
「ピースがあと一つ二つで埋まるって感じ」
そんな意味深な言葉を吐いてニヤリとした。実に意地悪そうな顔だ。
旅館に帰り着くと、広子さんが暇そうに玄関先に座り込んでいた。
「あ、お帰り~」
座ったまま手を振っている。今日一日客がいないとなると気楽なものだ。年末のかき入れどきにこれではオーナーは気苦労が絶えないだろうが、従業員としてはほとんど休みみたいなもので、ラッキーとでも思っているのかも知れない。
時計を見ると、昼の二時を回っている。
自転車を玄関前に止めて、師匠は布袋を広子さんに押し付けた。「大広間に置いといて」そう頼むと、広子さんは「いいよう」とえっちらおっちら、それを手に提げて大広間の方へ向かう。
僕らはそれを尻目に二階の部屋に上がった。途中、「他の温泉に入りに行こう」と師匠が僕の方を振り返りながら言う。
「他のって、田中屋ですか」
「とりあえずお隣らしいから、そこかな」
「観光気分ですか」
自分でそう言った後、勘介さんが近くにいないかと首をすくめる。あの人は腹に一物を持ってそうだ。女将のやとった僕ら胡散臭い連中に対し、明らかに敵対心を抱いている。あまり不真面目そうな言動をしていると、いつか怒鳴りつけられそうな気がする。
「人聞きが悪いな。情報収集だよ。古参の温泉旅館は新参者の『とかの』を心良く思ってないはずだからな。その裏を取りがてら、例の噂のことについて訊き込むとしよう」
そうして着替えを持ち出し、玄関先に止めていた自転車に乗ろうとすると、楓が敷地の門のところに立っているのに気づいた。
「お出かけ?」
「あ、どうも」
昨日よりも大人びた感じの服装をしている。
「デートぉ?」
師匠がシナを作っていやらしく訊くと、楓は「そんなんじゃないですよ」と手を広げて左右に振る。
「和にぃが、翠ちゃんと昨日きょうだい喧嘩しちゃったらしくて、仲直りしたいから翠ちゃんの好きなスタンドランプをプレゼントしたいんですって」
そのスタンドランプをどう選んでいいか分からないので、買い物に付き合ってくれと言われたらしい。
僕と師匠は顔を見合わせた。それでか。喫茶店での和雄の様子を思い出して、笑ってしまいそうになる。
「あ、きた」
田舎道に控えめな排気音を響かせて、和雄のバイクが姿を現す。なんという車種か知らないが、黒っぽいレーシーなやつで、こうして走っているところを見ると、なかなか様になっていてカッコいい。
旅館の敷地に入り、僕らの前でバイクは止まった。
ヘルメットを取った和雄はすました顔で「昨日はどうも」と僕らにしゃあしゃあと挨拶をすると、座席下の収納スペースからもう一つヘルメットを取り出して楓に渡した。
「じゃあ、行ってきます」
ヘルメットを被りながら僕らに手を振って、楓はバイクの後ろに乗り込んだ。和雄はなにか確認するようにゆっくりと僕と師匠に頭を下げ、それからアクセルを踏んで颯爽と走り去っていった。
それを見送った後で、師匠がぼんやりと言う。「でかいバイクだなあ。ヘルメットが二個収納できるやつだぞ、あれ」
そんなことより、さっきのやりとりに和雄の必死さが伝わってきて、なんだかこっちが恥ずかしくなってしまった。どうやら喫茶店では妹の翠との口裏合わせの作戦会議に出くわしてしまったらしい。妹をダシにしてデートの口実を作るとは、なりふり構わないというより、その生真面目さが垣間見えた気がして微笑ましかった。
「そんなあれこれ理由つけなくても、もっと強引で良いんじゃないかなあ」
昨日の夜のことを思い出してそう呟いたが、師匠は興味を失った様子で「さあ、行こう。早く汗を流したい」と急かし始めた。
確かにハイペースで自転車をこぎ続けていたので汗をかいたし、しばらく身体を動かさないでいると、寒さで急に服に染み込んだ水分が冷たくなっていく。
「いいですねえ」
僕は本心からそう言った。
◆
それから僕らは二人で温泉旅館『田中屋』を皮切りに、その近くにあった他の温泉をいくつかハシゴした。
どの温泉も入浴のみの客でもOKだった。入浴料を払って汗を流し、新しい服に着替えてから旅館の人をつかまえてそれとなく『とかの』の噂を訊き込んだ。
最初はあたりさわりのないことを言っていた古参ぽい従業員も、しつこく話しかけているとまんざらでもないらしく、だんだんとくだけてきて、声をひそめながら、『とかの』に関するゴシップを垂れ流しはじめた。やはり旅館同士の仲は相当に悪いようだ。その中に例の幽霊騒ぎに関するものもあった。
「呪われてるって話ですよ」
二軒目の『松ノ木温泉旅館』では、女将らしい人がそう耳打ちしてくれた。なんでも『とかの』の初代オーナーがあの土地を買うときに、そこに古くからあった祠を壊してしまったらしい。その祟りだと言うのだ。しかし、どうして神主が? そう思って訊き返すと、「そりゃあ……」と言いかけた後、考えてもみなかったのか「まあ、ここから出て行けってことですわね」と適当に一人で仕舞いをつけてしまった。
眉唾物の話ではあったが、確かに旅館を建てる前のことはあまり確認していなかったことに気づいた。そこになにか曰くがあるのだろうか。
師匠はそんな話を面白そうに聞いている。
温泉に浸かり過ぎて身体がふやけ始めたころ、三軒めの旅館を出てから師匠が言った。
「よし。もう戻ろう」
「いいんですか。この先にあと一軒あるみたいですけど」
「わたしはもういいよ。まだ入りたいなら、先帰っとく」
「いや、僕も帰りますよ」
どの温泉旅館も『とかの』を良く思っていないのは間違いないようだ。幽霊騒ぎについても噂に尾ひれをつけようとしているのが垣間見えた。しかし、残念ながらその幽霊の謎について核心に迫るような証言は得られなかった。
師匠はそれを残念がる様子もなく、ほんのり赤くなった顔で口笛を吹きながら気さくに泊り客に挨拶などしている。
僕らが旅館の前に止めてあった自転車に乗ろうとすると、ぽつりと頬に水滴が落ちた。
いつの間にか空は曇っている。「降りそうだな。急ごう」師匠が空を見上げながら手のひらを胸の前で掬うように広げてそう言う。
それから二人して来た道を全力で飛ばしたが、だんだんと雨の粒が大きくなり、『とかの』に帰り着いたときにはちょっとした小雨になっていた。
「あー、もう」
自転車を駐車場に戻し、師匠が濡れた髪の毛をかき上げながら悪態をつく。せっかく温泉に入って温まって来たところだというのに、もう冬の氷雨の洗礼を受けてしまった。袖口から水滴の滴る二人で並んで歩いていると、それでもなんだか楽しい。
「いま何時? 四時過ぎか。まだ少し時間があるな」
師匠はそう言いながら玄関ロビーに向かう。
「時間って、なんのです?」
「決まってるだろ。暮れ六つだよ」
お楽しみの対決の時間だ。
師匠はそう言ってほくそ笑む。
暮れ六つか。僕は今朝の明け六つのときの恐ろしい出来事が自然と脳裏に蘇り、足がすくむ思いがした。
ロビーのフロントには広子さんが立っていて、なにか帳面に書き付けているところだった。
「あ、お帰りぃ。雨降ってた?」
「このざまを見てのとおり」と師匠は笑いながら両手を広げて濡れた服を見せる。
「女将は?」
「大浴場の方だと思う。左官屋さんが来てるから」
「そうか。お、ありがとう」
広子さんが出してくれたタオルを受けとる。その広子さんは大袈裟な身振りで師匠に耳打ちする真似をした。
「ねえ。うちのお父さん、かなりカリカリしてるよ。あんたたちが他の温泉に浸かりに行ったって聞いたから。噴火寸前って感じ」
聞いた、ってそれを告げ口できたの一人しかいないじゃないですか。
「こわ。必要な情報収集活動なんだけどな」と師匠。
冗談じゃない!
僕は首を竦めてキョロキョロとあたりを見回す。周囲には勘介さんの影は見えない。
「そうそう。その情報収集であった収穫なんだけど、この旅館が建つ前にこの土地に祠(ほこら)があったんだって?」
広子さんはそれを聞いてきょとんとしていたが、やがて「あー」と思い出したような顔で頷く。
「あのお堂のことでしょ。ぼろいやつ。駐車場の裏手にあるけど、あれが確か旅館建てるときに場所を移したってやつだったと思う」
駐車場の裏手のお堂なら昨日見回りをした時に見た気がする。中に石が祀られていたはずだ。
「もう一回見てくる」
師匠がそう言うので僕もついていく。
借りた傘をさし、小雨が降り続く旅館の外へ出て、駐車場の方へ向かう。その敷地の隅に、朽ち果てたような木造の小さなお堂がひっそりと佇んでいた。
覗き込むと、小さな紙垂(しで)のついた格子戸の向こうに石が安置されているのが見える。
どうするのかと思っていると、師匠がいきなりその格子戸に手を伸ばして手前に開いた。そして無造作に石を掴み出す。
紙垂のついた格子戸は明らかに神域と外界とを分かつ境界だ。その意味を知りながら平然とそれを破るあたりがこの人らしい。
いつかこの人が死んで人々に害を成す悪霊にでもなったら、止める手段があるんだろうかと、僕はそんなことをぼんやりと思った。
「字が書いてあるな」
覗き込むと、石の表面に小さな文字が数行にわたって彫られている。苔むしていることと、古い字体のせいでほとんど読めなかったが、かろうじて「とかの」という平仮名が含まれているのは分かった。
ふんふん、と頷いてから師匠は石を元に戻した。読めたのだろうか。
「なんて書いてあったんです」
「神様に代わってこの地を守るってさ。御神体としては大して珍しいものじゃないよ。」
あんまり時間がなくなってきたな。
師匠はそう呟くと玄関の方へ引き返した。それからフロントのあたりで拭き掃除をしていた広子さんに「電話貸してね」と声をかける。
そしてたった二日しかいないのに、すでに勝手知ったる他人の家、とばかりにフロントの奥の事務所に入り込んでいく。
胸ポケットから手帳を取り出して、それを見ながらダイアルをする。
「あ、教授? わたしだけど、昨日頼んだの、分かった? え?」
声が遠かったのか、電話機の音量を上げながら師匠は続ける。
「うん。うん。ああ、神社明細帳とか大小神社取調べとか、そのあたりのはもういいよ。別で分かったから。で、古いのではどう? うん。うん。…………あったの? まじで? 延喜式にあった? えっ地誌? うん。……うん。延喜式の八十五座って畿内だけだっけ。そうか。やっぱり式台社じゃないか。でもさっすが、そんなめんどくさそうなとこに潜ってってなんとかなるなんて」
声が大きくなってきたところで、近づきすぎた僕の視線に気づき、師匠は「しっしっ」と虫を払うように手を振ると電話機を隠すように背中を向けた。
仕方なく少し遠ざかる。
師匠が小声になったので、何を喋っているのか聞き取れなくなってしまった。しかし多分、相手の教授というのはうちの大学の長野教授のことだろうというのは推測できた。神道や神社に関しては一家言持つその道の大家の一人だ。指導教官でもないのに、師匠はその長野教授と普段から親密なやりとりをしていて、良く言えば教えを乞い、悪く言えば便利使いしているのだった。どうやって取り入ったのかは知らないが、ほとんどタメ口を利いている。こっちがハラハラするくらいだった。
話している内容が気になるので耳をそばだてていると、いくつかの単語が細切れに聞こえてくる。
『女将』
『神社』
……
あとはほとんど聞き取れなかった。
「どうもありがと。お礼はいずれ、精神的に返すから」
師匠は頭を軽く下げて受話器を置いた。そして「あー」と言いながら両手を挙げて伸びをした。
「順調だなあ」
なにが順調なのか分からない僕は、どうしても気になることを尋ねる。
「女将がどうかしたんですか」
やたらと女将のことを話していたように聞こえたのだが、その理由が分からなかった。
「どうしたもなにも……」
犯人だよ。
そう囁いて、師匠は何ごともなかったかのように手を叩くと「さあ、準備準備」と僕を急き立てようとした。
訳が分からず「ちょっと待ってくださいよ」と抵抗しようとしたとき、さっき切ったばかりの電話が鳴り始めた。間髪入れずに師匠が受話器を取り上げる。
「わたしだけど、なにか言い忘れ? ……って、あちゃあ。ごめんなさぁい。間違えました。そうです。旅館とかのですぅ」
旅館にかかってきた電話らしい。師匠は慌てて取り繕っている。
『こっちこそごめんなさい。家の方にかけたんですけど、だれも出なくて。あの、楓ちゃんいますか』
若い女性の声が受話器から漏れている。
「ああ、楓さんですね。ちょっと待ってください」
喋りながら師匠がさっき上げ過ぎた電話機の音量を調節すると、相手の声は聞こえなくなった。
「広子さぁん。楓ちゃん、まだ帰ってないよね」フロントの方に向かって大声でそう確認してから、また受話器に向きあう。
「遊びに出かけていて、今いないんですよ。ごめんなさいね。うん。うん。……あ、じゃあ伝言しておくから」
師匠は卓上メモに走り書きをする。
「え? わたし? 新しい仲居ですよぅ。ゆかりって言います。よろしくお願いします」
適当なことを言っている。
「あ、最後に名前伺っておいていいですか」
師匠がそう言って、頷きながらボールペンを走らせていると、ふいにピタリとそのペン先が止まった。
「わかりました。それでは失礼します」
なにごともなかったかのように挨拶をして電話を切った師匠だったが、その顔を見た瞬間、僕はなにかぞくりとするものを感じた。俯いたまま口角を上げているその薄ら笑いのような表情に、ちりちりと周囲の空気が青く燃えるような錯覚をおぼえたのだ。
「あ~あ。でき過ぎだ。全部埋まっちゃったよ」
パズルの、最後のピースまで。
そう呟いて師匠はゆっくりと顔を上げた。
◆
霧雨のような細い雨粒が、旅館の屋根を音もなく叩いている。
外はもう暗い。まだ晩の六時になっていなかったが、雨雲が空を覆い、夕焼けの残滓ももうどこにもなかった。
日が落ちてから、ますます冷え込みが激しい。ここ一週間では一番の寒さだろう。
僕は震えながら両腕を抱えると、散策していた中庭から建物の中に戻った。旅館の中も、昨日よりもほんのりと肌寒さを感じた。客がいないので、暖房の設定温度を落としているらしい。客に相当する僕と師匠はいるのだが、勘介さんあたりが「あいつらは客じゃねえんだ」と無理やり温度を下げたのかも知れない。
一階のフロアの奥に向かうと、宴会場にも使われる大広間の前に全員が集まっていた。
女将の千代子さん、番頭の勘介さんと仲居の広子さんの親子。女将の娘の楓。そしてさっき楓をバイクで送ってきたばかりの若宮神社の次男坊、和雄。この五人に、僕と師匠を加えた合計七人が今この旅館にいるすべての人間だった。
「なにが始まるんです」
和雄が僕に問い掛けてくる。デートはそれなりに上手くいったらしい。機嫌が良さそうだ。楓の方も、和雄の策略を知って知らずか、まずまず楽しかったようだ。表情が柔らかい。
「謎解きだと本人は言ってましたが」
そう答えて、他の人と同じように閉じられたままの襖を見つめる。中では師匠が『準備』とやらをしているらしい。僕も最初だけ手伝ったので、中がどうなっているのか大体は分かっているのだが、なにをしようとしているのかまでは分からなかった。
「大丈夫でしょうか」
女将は戸惑った表情を浮かべて落ち着かない様子だった。
勘介さんはムッスリと押し黙って腕組みをしている。広子さんと楓は顔を寄せ合って何ごとか話をしていた。
また腕時計を見た。
六時までもう少しだ。暮れ六つを過ぎると、そこからは僕らのよく知るこの世の理が少し変わってしまう。なにが起こるか分からない、人の世の境界の外なのだ。特に、時の鐘が聞こえるこの土地では。
僕は事務所での師匠とのやりとりのことを思い浮かべた。師匠は確かに女将が犯人だと言った。あれはどういうことなのだろうか。幽霊は本物だ。遭遇した僕には分かる。人間のイタズラなんかじゃない。なのに、女将がこの幽霊騒動の犯人だというのか。
考えてもよく分からない。あるいは、なにか幽霊の出るようになった原因があり、その鍵を女将が握っているということか。
そっと隣にいる女将の横顔を盗み見る。
娘の楓とよく似ている。綺麗な人だ。夫と死に別れているそうだが、独り身になってから言い寄る男の一人や二人はいただろう。その誘いを断り、女手一つで旅館を切り盛りしながら子どもを育ててきたのだ。その華奢に見える身体に、どれほどの覚悟が詰まっていることか。
覚悟か。
ふいに、左官屋を呼んだという話を思い出した。僕と師匠が温泉めぐりから帰って来たとき、女将は左官屋と大浴場の方で打ち合わせをしていた。浴場の壁を直したいらしい。
壁……
壁に死体を塗り込める話があったな。
いやな想像が浮かんでくる。僕は頭を振って冷静さを取り戻そうとした。
そうしていると、僕らの目の前で、閉ざされていた大広間の襖がゆっくりと開いた。
「お待たせしました。どうぞ」
師匠が神妙な顔をして左手を広げ、みんなを奥へと誘う。全員が広間に入ったところで師匠が襖を閉めた。
ざわめきが起こる。
畳敷きの大広間の真ん中には注連縄が張られていた。およそ五メートル四方を囲む縄が、天井から糸で吊られて宙に浮いている。ちょうど胸元くらいの高さで、さっき二人で手分けして半紙から作った紙垂も等間隔につけられている。
言うまでもなく、注連縄は結界の役割を果たすものだ。神域を表し、悪しきものの侵入を拒む境界。
それを、今ここで用意する意味とは、いったいなんだ。わざわざ若宮神社から借りてきてまで。
「なにをしようというのです」女将が師匠に歩み寄る。「神式のお祓いならば、これまでもまったく効き目がございませんでしたのに」
「黙って見ていれば、いい気になりおって」
勘介さんが顔を赤くしながら腕組みを解く。とうとう噴火が始まりそうだった。依頼をした女将の手前、抑えてきた癇癪がついに。
思わず僕はしり込みをした。
「ちょっと、お父さん」広子さんがその前に立ちふさがる。相当に危険な雰囲気だった。
「お静かに」
そんなことにはお構いなく、師匠は短くそう言い放つと、頭を下げて注連縄をくぐった。
「暮れ六つが始まるまで、時間がありません。みなさん、速やかにこの中に入ってください」
振り返りながらそう告げる。
「まあまあ。とりあえず言うとおりにしてみようよ」
楓が師匠と同じように頭を下げながら注連縄の内側に入り込む。それにつられるように他の人たちも次々と腰を屈めて中に入っていった。もちろんこの僕も。
最後に残った勘介さんが、鼻息も荒く元の場所に仁王立ちしている。
「クソガキが、なにをふざけたこと言ってやがる」
それを見た和雄が冗談めかして声をかけた。
「勘介さん。注連縄の中に入らないと、危険ですよ。たぶん」
広子さんもそれに同調して同じことを言いながら「お父さんってば」と手招きをしている。
「危険?」
師匠が薄ら笑いを浮かべながら口を開く。
「危険なのは、この内側の方ですよ」
そうして畳の上を指さした。全員が息を飲んだ気配がする。
針だ。
畳の上に針がつき立てられている。それも膨大な量だ。女将に用意してもらった針を、こんな形で使うとは。僕も今知って驚いた。
「この針で囲われた空間に入ってください。跨いでもかまいません」
よく見ると、針は円を描くように並べられている。人一人が十分に座れる大きさだ。数えると、その円が注連縄の内側に全部で七つあった。人数分というわけか。
「井口さんはこのまま外にいてもいいですよ。ただし、これから先なにが起こっても、この注連縄の中には入ってこないでください」
師匠は針の上を跨いで、円の内側に入り込んだ。その緊張したような声色に引っ張られるように、他のみんなもそれぞれ畳に刺さった針の円に入る。勘介さんだけは「ふん」と鼻で笑い、その場でそっぽを向いてしまった。
六人が注連縄の中、一人が外。
大広間の中は、これからなにが起こるのか固唾を飲んで見守る雰囲気になっている。
「さあ、そろそろですね」
師匠が時計を見ながらそう言う。
それからほどなくして、遠くから鐘の音が聞こえ始めた。澄んだ冬の空気を震わせて、遠い若宮神社から聞こえてくる時の鐘が。
十秒ほどの間を空けて、鐘の音は休まず続く。二回目。三回目……
最初の三回は捨て鐘。そして次からが暮れ六つだ。
四回目。五回目。六回目……
室内にいる誰もが押し黙っている。ただ微かに聞こえる鐘の音に耳を澄まして息を飲んでいた。
七回目。八回目。九回目……
最後の鐘が鳴り止んで、その余韻が耳の奥にわずかに残り、幻のように反響している。
「さて」
師匠が口を開く。一番奥の円にいて、ただ一人こちらを向いている。他の僕たちと向かい合う格好だ。
「暮れ六つが鳴り終わりました。ここからは幽世(かくりよ)のうちにある時間帯です。そこでは人はとてもか弱い存在です。現世(うつしよ)のものならぬモノたちが、ほんのひと撫でするだけで命の灯火が消えてしまうような…… くれぐれもお気をつけください。これからなにが起こっても決して我を無くし、この針の結界から出るようなことをしてはいけません」
いいですね?
師匠は囁くような声でそう言った。
みんな静かに聞き入っていて、素直に頷いている。なんだか僕もぞくぞくしてきた。もったいぶるのは師匠の常だったが、今日は特に念が入っている。
「わたしは、この温泉旅館に出るという神主姿の幽霊の問題を解決するために呼ばれました。依頼を受けた時点では半信半疑でしたが、実際にこちらにやってきて、幽霊を見たという人の話を直に聴き取り、現地を見て回った後の印象は違いました。ここにはなにかがいます。確実に、この世のものではないなにかが。それがなんであるのかを確かめ、どうすれば出なくなるのか、その方法を探る。それを成し遂げるためにこの二日間がありました。まず第一のヒントは神主姿であるということ。ここからすべてが始まります。しかし、この地域唯一の神社である若宮神社では、そんな幽霊に全く心当たりはなかった。それどころか、宮司が出向いてきて御祓いを行ってもその出現が止むことはなかった。お寺に頼んでもそれは同様でした。よほど強い怨念を抱いている霊だったのでしょうか。いいえ。なにか違う気がします。その神主姿の幽霊は、これまで人に危害を加えるような実害を成していません。訴えたいことがあるのかも判然としない状態です。どちらかというと、そのへんのどこにでもいる、弱々しい浮遊霊のような現れ方です。しかし一年近くにわたって、同じ建物で頻繁に目撃されているというところには、なにか執着心というか、執念のようなものを感じます。ちぐはぐです。実にちぐはぐなのです」
師匠は首を左右に振る。そしてその場に腰を落とし、他のみんなにも座るようにとジェスチャーをした。長くなると言いたいのだろう。
それぞれ思い思いの格好で、針の円の中に座り込む。
「わたしは神職や僧侶のように、霊を祓い、魔を打ち破るようなことはできません。しかし、あらゆる存在には因果というものがあります。その目に見えない因果の糸を解けば、自ずと解決への道が見えてくるものです。みなさん」
師匠は静かな声でこちらに呼びかけてくる。
「みなさんの中に、この『とかの』で神主の霊を見た、あるいはどんな形でも遭遇した、という方がいたら手を挙げてください」
自分も手を挙げながら周囲を見ると、みんな手を挙げていた。師匠を除いて。
おかしかったのは、注連縄の外の勘介さんまで畳の上に胡坐をかいたまま仏頂面で右手をぴょこんと挙げていたことだ。見ているだけで思わず笑ってしまいそうになる。
「いいでしょう。広子さんと勘介さんはどんな風に遭遇したのか詳しくお聞きしていませんでしたね。ここでお話しいただけませんか」
そう言えば昨日みんなの話を聞いて回った時に、広子さんは「見てない」と言っていたことを思い出した。なぜか嘘をついていて、本当は見たことがあったのだろうか。
「いやあ。私のはたぶん見間違えって言うか。まあ、その、炊事場で一人で洗い物している時にスーッて後ろを誰かが通った気がしたんですよね。あれっ、と思ってそっち見たら、出入り口のトコに一瞬だけ後ろ姿が見えたんですよ」
それが神主が着るような服装だった気がする、というのだ。後で旅館のみんなに聞いても、誰も炊事場には近づかなかったという。それで気味が悪くなって、しばらくはおっかなびっくり仕事をしていたそうだ。怖いものだから、自分でもなにか見間違いだと思い込むようにしていたそうだ。
勘介さんの方は不機嫌さを隠そうともしないボソボソとした声だったが、どうやら数回見ているらしいということが分かった。一人でいる時に、目の前を半透明の人間が通ったというケースが多かったが、他の仲居と一緒に片付け物をしている時に、二人で同時に目撃したという話もあった。すぐ目の前で、誰もいないはずの柱の影から音もなく人影が現れて、廊下の奥へ消えていったというのだ。
二人以上の人間に目撃される例は又聞きの噂としてはあったが、実際に体験した本人が喋るとそれとは違った臨場感があった。
女将も何度か見たとは言っていたが、すべての体験談を聞いたわけではなかったので、続けて話してもらう。
「私が最初に見ましたのは、春先だったと思いますが、夜中に事務所で一人書き物をしておりましたところ、なにかの気配を感じましてふと顔を上げますと、目の前の壁の中に、その、人の姿を見たのです。ええ。壁の中でした」
その人影は神主のような格好をしていたという。悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちそうになって慌てて机の縁につかまると、いつの間にかその壁の中の霊は見えなくなっていたのだそうだ。
その後も女将は何度か神主姿の霊を目撃していた。現れ方は様々で一様ではなかったが、共通しているのは、なにか訴えかけられるようなものを全く感じなかったということだけだった。
楓と和雄の体験談は昨日聞いたとおりだ。
楓は客室の膳を下げている時に廊下の外に神主の霊が佇んでいるのを見ている。和雄の方は露天風呂に入っている時に遭遇していた。
そしてこの僕も、今朝恐ろしい目にあったばかりだった。その時のことを思い出してしまい、身震いする。
「なるほど。みなさん、それぞれになんらかの体験をしている。しかし女将と勘介さんは複数回見ていますが、他の方はみんな一度だけの遭遇です。少なくとも知覚しているものは。一年ほど前から現れるようになった幽霊が、ここでずっと働いている広子さんに対して一度だけしか姿を見せていない。これはかなり低い頻度です。出るようになったのは一年ほど前から、と聞きましたが、正確にはいつごろか分かりますか。これは推測ですが、女将が最初に見たという、春先ごろが最初ではないですか」
話を振られた女将は怪訝な顔で首を傾げる。
「あー、でもそのころかも。噂が出始めたの」と広子さんが言った。
「ということは、いちにいさん…… 九ヵ月か十ヵ月というところですか。まあ一年弱という表現でもいいでしょう。この期間、覚えておいてください。さて、その個人単位で考えると遭遇頻度の低い幽霊ですが、今日、これから、この場に現れます」
ええ?
そんな声が上がった。僕も少し驚いた。そんなことをあっさり断言するなんて。
しかし師匠は平然と続ける。
「様々な要因が重なり、その確率は極めて高いと言えます。そうでなくてはこうしてみなさんに集まっていただいた意味もありません。その出現要因はいくつもありますが、例えばまず暮れ六つを過ぎた時間帯であるということ。これは大きな問題です。それよりも早く現れたケースはこれまでありません。そしてそれは暮れ六つの意味を理解した存在であるということを同時に指し示しています。次に、噂をすれば影、という言葉があるように、わたしの経験上、霊体は己に興味を示し、その存在を肯定する者の前に現れやすいという傾向があります。その噂の内容は怯えであったり、からかいであったりと様々ですが、今わたしたちがこうして話をしていることがその出現を誘発しうるというということです。そしてなにより、この場にわたしがいるということ。また、この場でわたしの次に霊感の強い助手のこいつがいるということも要因の一つです」
師匠の広げた手で紹介される形になり、思わず「どうも」と照れ隠しにみんなに頭を下げた。なにか変な気持ちだ。
しかし師匠は暗に自分の霊感の強力さを自負するような言い回しをしているのに気づいた。これだけ言ってなにも出なければ大恥を晒すことになるが、それを承知で自分を追い込んでいるのだろうか。
「それら多くの要因の中で、非常に重要度の高いものが二つあります。それは今この場に揃っている、ある特別な条件です。そのために、これから間違いなく神主姿の霊は出ます。約束してください。もし出現しても、けっして動かないで下さい。その針の結界の外には出ないように」
僕は改めて針を見た。どれもかなり長い。良く見ると、畳に刺さっているのは穴のある側だ。尖った方が上を向いている。もしバランスを崩して針の列の上に転んだら、と思うとゾッとする。
「では、これを見てください」
師匠はズボンのポケットから折り畳んだ半紙を取り出した。広げると、そこには漢字が一文字だけ大きく書かれている。
雨冠。その下に口が三つ横に並び、さらにその下に「龍」の文字。
「これは昨日、裏山の谷底で見つけた石に彫られていた文字です。裏山には若宮神社の分社などなんらかの社の類はない、とみなさん口を揃えておっしゃいましたが、これはいったいなんだと思いますか」
「あ」という声が上がった。和雄だ。なにか気づいたようだ。
「祭祀的な役割のものではなくても、山道の路傍にこうした文字を彫った石を置くことはあります。一里塚のような道標がそうですね。しかし、この見慣れない文字はどうでしょう。一体なにを表しているものなのか……」
師匠は針の円の中に胡坐をかいたまま半紙をひらひらと揺らす。
そのとき、一瞬なにか聞こえた気がした。なんだろう。気のせいだろうか。
「その謎を解くには、まず亀ヶ淵という溜め池の話をしなくてはなりません。みなさんご存知のように、戦国武将である高橋永熾がこの地に侵攻してきたときに領土としての価値を高めるため、水瓶として造ったものです。元々その場所には沼地があり、その地名が溜め池の名前になったものです。ところがここには実はもう一つの名前があります。ショウガブチという名前をお聞きになったことがありますか。今や地元の人間ですら知らない、文献にだけ現れる古い古い読み方です。しかしいつからそう呼ばれなくなったのか、推測することができます。もちろん、溜め池の完成というエポックメーキングのときからですよ。新しい用水路。新しい農法。この周辺で暮らす人々の生活を変えてしまったとき、古いものがひっそりと消えていったのです。そしてそれは、高橋永熾がもたらしたもう一つのものにも当てはまります」
りん……
ふいに耳にそんな音が入った。なんだ。いまの音は。
僕にだけ聞えたのだろうか。思わず周囲を見たが、特に異変めいたものは見当たらない。
しかし、ざわざわと胸のあたりにざわめくものがあった。
師匠は平然として説明を続け、みんなその一言ひとことから自然と耳がそらせなくなっていった。
「高橋永熾は軍事的侵攻のさいに、以前の領土で信仰していた八幡神社をこの地にも勧請してきます。これは他の戦国武将にも往々にしてあったことです。そうして勧請された若宮を祀る社、『若宮神社』と名づけられたそれはこの地の人々を氏子として取り込み、高橋永熾の野望が破れた後も残り続け、現在まで脈々と信仰が受け継がれています。今日境内も拝見してきましたが、大変に立派なものだと思います。しかし、庇護者であった高橋家の援助が断たれたにも関わらず、これだけの社格の神社を維持できたのも氏子衆の寄進、そして力添えがあってこそです。今でこそ、この松ノ木郷は西川町の外れにあり、寂れた印象を持ってしまうような景観です。しかし当時はかなりの人口を抱えていたであろうことが、この神社の大きさからも推測できるのです。だからこそ、高橋永熾は巨額を投じてこの地に溜め池を建設しようともしたのです。すると、ここに奇妙なことが現れてきます。それだけの数の氏子衆は、若宮神社がやってくるまではいったい何を信仰していたのでしょう」
はっ、としたような空気が広間に満ちた。
これから事件の本題に入ることが分かったからだ。
「その情報は、これまでまったく耳にしませんでした。明治初期の神社整理政策の渦中で、祭神も分からないような無社格の小さな社は次々と若宮神社に統合されていきました。その名前のないカミたちは、今では若宮神社の境内にある末社で眠っています。しかし、のちにその若宮神社を支えた氏子衆はそんな取るに足りないカミたちをこぞって信仰していたのでしょうか。いいえ。違います。違うのです。溜め池がどうして造られたのか、もう一度その意味を考えてください。高橋永熾の領土的野心? 百年の大計? そうした側面の前に、もっとも即物的な理由があります。水です。水がなかったのです。日本中の村々で幾度となく起こってきた飢饉。その原因は水不足です。雨が降らなければ田は、畑は干上がり、作物は枯れていきます。水を引いていた水路も、川などのその源泉が干上がれば用を成しません。今でこそ近代技術であるボーリングで温泉が湧くような土地柄ですが、この松ノ木郷を懐に抱く山々は低く、おそらく降り注いだ雨をゆっくりと安定的に地表に流していく地質ではないのです。土地を流れる枝川の水量は安定せず、干天が続くと水はなくなり、度々飢饉が発生したことでしょう。だからこそ溜め池が造られたのです。それほど水に困っていた人々が、神に祈らなかったはずはありません。そうした切実な祈りを受け止める神が、この地にいなかったはずはないのです」
りん……
また聞こえた。なんだこの音は。
師匠はその音にまったく反応もせず、漢字が書かれた半紙をもう一度高く掲げながら声を張った。
「雨の下に口を三つと龍を書くこの字は、『オカミ』と読みます。古いやまと言葉です。過去を紐解くと万葉集にこんな歌があります」
わが岡のオカミに言ひて落(ふ)らしめし
雪の摧(くだ)けし其処に散りけむ
「このオカミとは水の神です。罔象女神(ミヅハノメ)などと並び、各地で人々の信仰を集め、重要な役割を果たしてきた水神です。高(たか)オカミと呼ぶ場合は山の水を司り、闇(くら)オカミと呼ぶ場合は暗渠、つまり地の底や谷を流れる水を司ります。このオカミを祀った神社は日本中に分布しています。日照りが続くときには、この神に雨を乞うのです。その際には雨を祈る、つまり祈雨の儀式が行われました。例えば相撲を奉じたり、神楽を舞ったりして神を喜ばせ、あるいは盛大に祭りを催して村中を練り歩いたり、山に登って大きな火を焚いたり、といった様々な行事です。もちろん古来よりの風習である祈雨の対象はオカミだけではありません。様々な神社が雨乞いの儀式を司りました。『丹貴』、つまり雨師と称され吉野川の上流に鎮座した丹生川上社や、賀茂川の上流に鎮座した貴船神社を代表とする、祈雨に効ありとされた神社群が朝廷の奉幣を受けてきた歴史があります。平安期に編纂された『延喜式』の神名帳にも祈雨八十五座と呼ばれる神社が記載されています。また、神道に限らず、密教を代表とする仏教儀礼においても、雨を請う、請雨法の秘術が長らく行われてきました。密教の『四筒の大法』のうち、『請雨経法』と『孔雀明王経法』は請雨法として知られています。そして密教といえばなんといっても竜王です。空海の招いた善女竜王などの八大竜王やその眷属たちは雷の神であり、水の神であり、そして雨の神でもあります。竜王の名前を冠した山は日本中には数え切れないほど多くあり、竜王が守護するそうした山は庶民の間でも祈雨の儀式を行うための重要な信仰対象ともなってきました。そうです。山です。山は降り注いだ雨をその懐深くに溜め込み、絶え間なく平地に水をもたらすための装置です。竜王山に限らず、あらゆる山は祈雨の行事における重要拠点なのです。もちろん、慢性的な水不足に悩む松ノ木郷に鎮座する、この旅館の裏手の山も」
りん……
その音に師匠の声が重なり、不思議な余韻となってたなびいていく。
「かつてこの裏山にはオカミを祀る神社があったのです。わたしが谷底で見つけた石は、その遺構でしょう。炎のごとく農地を焼く太陽が、曇ることなく光を降り注ぎ続ける『炎旱』の間、人々はオカミに祈りました。一心に、雨を懇願したのです。現代社会の、結婚と家の新築、そして葬式の際ぐらいしか関わりのないとってつけたような神式の行事とはわけが違います。雨の降るや降らざるやに、その村で生きるすべての人間の命がかかっている、正真正銘の全身全霊をもって臨んだ『信仰』です。そうであるがゆえに、その信仰の向かうところであった神社の権勢たるや大変なものだったと推測できます。しかし、その雨乞儀式を司ってきたオカミ神社にも、いつしか転機が訪れます。もうお分かりでしょう。高橋永熾がもたらした二つの変革の一つ。若宮神社の勧請です」
りん……
りん……
音が大きくなっていく。静けさの中に、その音がなんとも言いようのないざわめきを運んでくるようだ。
「高橋永熾のもたらした二つの変革は、その実、二つにして一つのものです。溜め池が出来ることで日照りの恐怖は薄れ、雨乞いのための信仰は不要になりました。そして松ノ木郷の人々の信仰心の新しい受け皿が若宮神社です。この日本でもっとも多くの人に信仰されている八幡神を祀った神社なのですから、その役に十二分にかなうものでした。この二つの変革は混ざり合い、効率的に古いものから新しいものへとすべてが変わっていきました。その過程で忘れ去られ、消えていったものたちがあります。かつてこの山に存在し、人々の信仰を集めたオカミ神社の記録が、そして記憶が、人々の中に残っていないのは、運命だったのでしょうか」
りん……
りん……
りん……
師匠の言葉に反応するように、音が大きくなる。
全員が息を飲んで注連縄を見つめている。よく見ると四方を囲むその縄の四隅に、小さな鈴が取り付けられていた。
その鈴が、鳴っている。
「いえ。運命などという生易しい言葉で語ってよいものではないのかも知れません。高橋永熾はただの善意で溜め池を造ったのではありません。統治者として必要性があったから造ったのです。そして若宮神社による住民の信仰面の統一も含め、この地における新しい支配体制の確立に力を注ぎました。当然、古くからあるオカミ神社の存在は邪魔なだけです。直接的な力をもって行なったのか、あるいは事故を装ったのか、真綿で首を絞めるように外堀から切り崩していったのか、それは分かりません。しかし、そのオカミ神社が存続できない程度には具体的に排除を行なったことは想像に難くありません。そして徹底的にかつてそんな神社が存在したことを消し去ろうとしました。高橋家は二代目でついえていますので、その目論見は完成してはいなかったかも知れません。しかし、現に以前ほどに雨乞いをする必要がなくなったという事実が、新旧の神社の交代を自然に推し進め、人々の記憶を薄れさせていったのです。あるいは、もしかするとわたしが想像するよりもその交代はずっと穏やかに行なわれたのかも知れません。しかし歴史の闇の中に消えていく側にとって、己の消滅の原因が高橋家、そして若宮神社にあったことは間違いのないことです。その恨みが、怨念が、山肌に染み込み、高き場所から流れる川となって、あるいは暗渠に流れる闇(くら)い水となっていつかすべて流れ去っていったのでしょうか」
りん……
りん……
りん……
りん……
鈴が。注連縄が揺れている。
空気が刺すように冷たい。吐く息が白くなっていくような気がする。みんな顔を強張らせ、恐怖に満ちた目を周囲に泳がせている。
「オカミ神社が若宮神社によって奪われたものは氏子だけではありません。雨乞い儀式において重要な役割を果たしてきたあるものも奪われました。雨乞いの際に行われる儀式や行事には様々な様態があります。例えば仏像や御神体に水をかける行為。泉や池の水をすべて取り替えるという『水かえ』。藁束などを山頂で燃やす『雲あぶり』。雨乞い面と呼ばれるような能の面を被ったり、特別な鏡を持ち出したり、大量の枡を一斉に洗う百枡洗いや、動物の死骸や糞尿などの不浄のものを神の住む場所に投げ込んでその怒りをもって雨を降らせるような儀式もありました。その中で全国に幅広く分布するある風習がこの地でも行われていました。『月はいずれ鐘は沈める海の底』という芭蕉の句があります。これは越前敦賀の鐘ヶ崎に沈む鐘の伝説を詠んだものです。筑前鐘ヶ崎の鐘なども有名ですが、こうした沈鐘伝説の背景には、海の底に住む竜神が鐘を好むために鐘を積んだ船が沈み、そして引き上げることができないという説話があります。このように竜神が好む鐘を池や浅瀬に漬けることで喜ばせ、雨を降らせてもらうという儀式が古来より日本中で行われてきました。この松ノ木郷ではその『鐘漬け』はある沼地で行われていたようです。鐘があったのはもちろん雨乞いを担うオカミ神社です。そして鐘漬けが行われてきた沼地は鐘を漬けるための淵、つまり鐘ヶ淵(ショウガブチ)あるいは、湯桶読みをして鐘ヶ淵(カネガブチ)と呼ばれていました。この鐘はそうやって日照りのたびに沼に漬けられたために、水に触れる下部に幾重にも重なる錆を生じました。和雄さん、あなたの実家の若宮神社にある鐘がそうです。あの鐘は元々オカミ神社にあったものなのです。銘を削られ、奪われた雨乞いの神事の象徴はその役割を終えました。溜め池が完成し、鐘が漬けられることもなくなった後、カネガブチもその名前を変えました。近い読みをする、亀ヶ淵(カメガブチ)と。これは恐らく高橋永熾による改名ではないかと思われます。今浜を長浜と変えた羽柴秀吉の例にもあるように、戦国武将は良くこうした地名改変を行っています。亀の字をどう読もうとも、ショウとは読まないのです。違っていたのは、字の方なのですよ」
りん……
鳴り響く鈴の音を聞きながら、僕は思い出していた。師匠の言葉を。長野教授との電話の後、「女将がどうしたんですか」と問い掛けた僕に、師匠は言った。
『犯人だよ』と。
違っていたのは字の方なのだ。
「女将」ではなく、「オカミ」
神の名前。あるいは、神社の名前。師匠が告げたのはそちらの真相なのだ。
つまり……
「キャーッ」
いきなり悲鳴が上がった。楓が口元を押さえて叫んでいる。
その視線の先には、薄っすらとした人影がある。じわじわと、その希薄な身体が輪郭を持ち始める。狩衣に烏帽子、袴。神主の、姿をしている。顔はない。ぼやけているというよりも、青白いのっぺりとした肉がそこにあるだけのようだった。それがなにもない空間から湧き出てくる。
その影は一つではなかった。二つ。三つ。四つ。まだいる。まだ。
「うわぁ」と和雄も叫ぶ。女将も、広子さんも叫んでいる。勘介さんも腰を抜かしたようにへたり込んで泡を吹きそうな顔をしている。
僕もその異常な光景にまともに息ができないでいる。心臓がバクバクと鳴っている。それがこの世のものではないという直感と、なによりその現れ出る姿に異様な恐ろしさを感じだのだ。
影は注連縄の内側に現れていた。邪(よこしま)なものを退けるはずの境界の、その内側に。
近い。たった五メートル四方に切り取られた空間の中に、僕ら六人と不気味な人影たちがひしめき合っている。逃げ場などない。
朝、玄関で得体の知れない存在に触られたときの感覚が蘇る。すべての生気を吸い取られるような、二度と味わいたくない感触だった。
悲鳴が交錯する中で、師匠が吼えた。
「うろたえるなっ」
その気迫にかき消されるように悲鳴が止む。
「その場を動くな。その針は結界だ。それも即物的な。踏めば痛い、と知っている者ならば、越えることができない」
凛した声が広間に響き渡る。言葉づかいが変わっている。
神主姿の影は注連縄の中をさまよいながら、しかし僕らの身体には触れることはなかった。すべて針の円の外側を音もなく揺らめくように歩いている。
「逆に言えば、注連縄は彼らにとって結界ではない。いや、自分たちが棲まうべき『内側』なんだ。彼らは俗な表現で言う、悪霊なんかじゃない。ある真実を告げるために現れた、祖霊なんだ。かつて神職であったものたちだ。むしろその存在は神に近いと言っていい。だから直接に人間に接触できないほど希薄な霊体である彼らは、神域である注連縄の内側でこそ力を得て出現する」
これが、今夜この場に彼らが現れるとわたしが確信していた第一の要因っ!
師匠が叫ぶその前を、神主の霊が行き交う。
寒い。頬に風を感じる。冷え切った空気が、その動きにかき回されるように対流を起こしている。
「さすがにこの状況が長く続くとまずい。手短に話す。彼らはオカミ神社の代々の宮司たちだ。四百年以上の昔の。若宮神社の当代の宮司である石坂章一氏がいくら御祓いをしてもだめだったのは、流派が違うなどという生易しい理由じゃない。オカミ神社の宮司たちにとって、若宮神社は侵略者だ。自分たちの存在を歴史の中に消し去った張本人たちなんだ。怒りを増しこそすれ、祓われることなどない。なにより、彼らは悪意を持って現世(うつしよ)に現れているんじゃない。『とかの』の宿泊客や従業員には全く手を出していないことからもそれが分かる。したかったことは唯一つ、警告だ。悪しきもの、邪(よこしま)なものが『とかの』に入り込んでいることに対する警告なんだ」
僕の目の前に顔があった。
目鼻もなにもない顔がわずか二十センチの距離で僕の顔を覗き込んでいる。ぎゅっと心臓が縮み上がる。
「この地方の古い地誌に、松ノ木郷にあるオカミを祀る神社の記述があった。名前は木編に母と書く『栂野神社』。この地のオカミ神社の正式名は栂野神社というんだ。わかるか。トガノだ。この符合は偶然じゃない。この温泉旅館『とかの』を開いた戸叶家は、よそ者なんかじゃない。由緒ある栂野神社の宮司一族につながる、れっきとした家柄なんだ。ただ、新興の若宮神社に氏子を奪われた宮司一族は没落してしまった。やがて他の地方へと落ち延びていった。そしてどういう変遷を経てか、名を変え、大阪で材木問屋を営むようになり財を成した。それが女将の祖父である亀吉氏の代で、凱旋を果たしたんだ。もちろん旅館を開く場所に選んだのは先祖伝来の土地であるこの山の麓。かつて栂野神社があった山だ。今この旅館の駐車場には、この土地を買い取り造成工事をしたときに場所を移された祠がある。その御神体である石には、消えかけた文字でこう書いてあった。とかのの名において、神にかわり、この地を守ると。神社が消え、宮司一族が去った後、ずっと主人の帰りを待っていた石だ。今は役割を終えて眠っている。そしてその役割は新しい『戸叶家』に受け継がれた。祖父の亀吉氏はその消された歴史を密かに伝え聞いていた。しかし次の代には引き継がなかった。あるいは自分の息子である二代目には伝えたのかも知れない。だが三代目である千代子さんには伝承されなかった。それはこの地で新しい暮らしを始めた新しい世代に、そのくびきを見せたくなかったのかも知れない。時は明治の神社整理を越え、若宮神社は安泰であり、もはや栂野神社の復興も適わないという現実がそこにはあった。ただその山の麓で生きていくことが、先祖の霊を慰め、そしてまた先祖の霊に守られることになるのだと。それだけを思ったのかも知れない。女将、あなたが子どものころ、大雨の夜に見た大蛇は、蛇じゃない。龍だ。オカミ神社には守護者たる龍を象ったものが置かれることが多い。茅で作られたものなどだ。そして栂野神社には木彫りの龍があった。そして宮司一族が放逐され、荒廃した神社の遺構が幾度かの土砂崩れで埋まり、御神体の龍があの山のどこかに眠っていた。それがあの夜の大雨でついに土砂ごと枝川まで滑落し、濁流の中を流されていったんだ。あなたが見たのは、手足を泥水の中に秘めた巨大な龍の胴体だった」
はぁっ。
命が抜けるような深い息が吐き出された。女将だ。顔面は蒼白になり、両手はその頬に触れるか触れないかという場所でガタガタと震えている。
「ひょっとすると、あなたの祖父はそのとき栂野神社の復権を諦め、あなたの代ではこの地に溶け込んでこれからずっと暮らしていけるよう、真実をその胸に仕舞う覚悟をしたのかも知れない」
師匠のその言葉に、女将は顔を覆って嗚咽を漏らし始めた。どのような感情がそこにあるのかは分からない。しかし見ているだけの僕にも、胸を締め付けられるような感覚があった。
「そして、その地に帰ってきた子孫たちを守り続けてきた宮司の祖霊は、悪しきものの侵入に気づき、警告を発する。それが春先から始まる幽霊事件だ。思い出して欲しい。わたしはこの場にいる全員にそれぞれの幽霊との遭遇譚を訊いた。その中で一人、たった一人だけ、他の人と異なる遭遇の仕方をしていた。誰だか分かるか」
気がつくと、ざわざわとした気配が僕の周囲からは離れていた。その神主の霊たちはある一箇所に集まり始めている。
「襲われているんだ。その人物だけが」
ハッとした。
僕……? なんだか分からないが、目の前が真っ暗になりそうだった。
師匠が僕の表情に気づいたかのように苦笑する。
「おまえのは、ただ通り道だったというだけだ。明け六つが始まるから、出て行こうとしたんだよ。その進行方向に座っていたというただの不運だ」
そうか。そう言えば、なんというか、害意のようなものは感じなかった。では、その人物とはもう一人しかいないじゃないか。
「ひぃぃ」
泣き声のような悲鳴が上がる。和雄だ。和雄が呻きながら目の前の空間を手で払う仕草をしている。
その周囲には無数の影が蠢いている。まるで群がるように。
「おまえだけだよ。追いかけられているのは」
和雄の姿を見ながら、冷たい声で師匠はそう言った。
「露天風呂で遭遇したとき、おまえは近寄ってくる幽霊からなんとか逃げ切った、と言ったな。なぜおまえだけ、そんな目に会うんだ? 答えてやろうか。ええ? 若宮神社のお坊ちゃん。わたしも最初はただお前がこの栂野神社の末裔の地にとっては仇敵の子孫であり、招かれざる客だからだろうと思ったさ。だが、新しい戸叶家は若宮神社の氏子になり、そんなくびきから解き放たれた生活を始めているんだ。快くは思わないだろうが、祖霊にしてもそれをぶち壊そうとまでするだろうかと考えると、しっくり来ないものがあった。その謎が解けたのは喫茶店だよ。今日の昼に西川町での喫茶店で会ったろ。おまえはそのとき、女連れだった。そして困った顔で妹だと紹介をした。ここで自分たちを見たことを誰にも言わないでくれ、とも言ったな。その後で、妹との喧嘩をダシに楓をデートに誘ったことを知ったわたしたちにはちょうどいい目くらましになるところだった。だけどあの喫茶店には、バイクは一台しか止まっていなかった。おまえ言ったよな。バス停が遠いから、うちの家族はみんなバイクに乗ってるって。喫茶店のバイクには見覚えがあった。おまえのバイクだ。じゃあ妹はどうやって来たんだ。二人乗り? しかしヘルメットは片方のハンドルに一つだけしか掛けられていなかった。もう一つは座席下のヘルメットホルダーか? だが、おまえのバイクはヘルメットが二つ同時に収納できるタイプだ。なぜバイクを降りた後、二人がヘルメットを脱いだのに、片方だけをわざわざ座席下に仕舞うようなことをするんだ。どちらかはノーヘルか? いや、顔見知りの多い田舎の街なかを走るのに、そんな無駄な危険を冒すもんか。ヘルメットなんて始めから一つしかなかったんだよ。ただおまえはあそこで待ち合わせていただけなんだ。西川町に住む女と。あの女は妹の翠じゃない。顔を知らないわたしたちなら咄嗟に騙せると思ったのか。随分と楽天的だな。さっき、旅館に電話があったよ。楓ちゃんいますかってさ。名前を聞いたら翠と名乗ったぜ。おかしいな。デートの約束の時間から二時間くらいしか経ってない。喫茶店でアニキと口裏合わせをしてたのが本当に翠なら、楓がいないだろうってことくらい知っているはずじゃないのか。ありがちな話だ。シンプルに考えればいい。やましい関係にある女と密会しているときに、知り合いに見られた場合の言い訳、その一。『妹なんだ』 ……な? バッカみたいだろ。おまえ、楓にゾッコンな振りをして、なにを企んでんだ」
師匠の言葉にみんな耳を疑うように唖然としている。ただ当の和雄だけは自分の回りを取り囲む幽霊の群れに怯えてそれどころではないようだった。
「お取り込み中みたいだから、かわりに言ってやろうか。おまえが次男だからだよ。伝統ある若宮神社は皇學館の院生である長男の修が継ぐことが事実上決まっている。おまえがいずれ家から追い出されることは自分で言っていたことだ。それまでに手に職をつけなければならない。そんな中、幼馴染だった楓が高校を卒業して短大に入り、随分と垢抜けて可愛くなった。おいおい。いいんじゃないか。実家は旅館を経営している。なのに、跡継ぎはいない。婿に入れば、旅館はいずれ自分の手に入ったも同然だ。将来は安泰、嫁は可愛い。母親の女将とも今まで上手く折り合いがついている。最高じゃないか。本命は別の女だとしても、ばれなきゃいい。外に女の一人や二人持つのも男の甲斐性だぜ。なあ、そうだろう」
楓は目を剥いて師匠と和雄を交互に見ている。
「おまえがこの家に頻繁に出入りするようになったのは、楓が短大生になってからだと聞いている。さっきわたしが覚えておいて欲しいといった期間は九ヵ月から十ヶ月だ。なんの数字だった? 幽霊騒動が始まってから今までの期間だよ。それはおまえが邪な野望を抱いてこの『とかの』にやってくるようになった期間とぴったり重なるんだ。もう分かっただろう。オカミ神社、つまり栂野神社の宮司の霊が旅館に現れるようになったのは、邪心を隠し持って侵入してきた石坂和雄という異物のことを警告するためだ。これが今夜この場に彼らが現れるとわたしが確信していた第二の要因。その張本人がいわば釣り餌としてここにいたことだ」
と、いうわけで。
そう言いながら師匠は大袈裟な動作で和雄を指さした。
「複雑怪奇なこの事件、神職ならぬこのわたしに、祓えというなら祓ってやるさ。追い払うっていう手段で」
で・て・け
ゆっくりと一音節ずつ区切って師匠はそう宣告した。その短い言葉には一種抗えないような響きを伴っているような気がした。
和雄は自分に触れようとする霊体たちの手を、狭い円の中で必死で避けながら「助けてくれ、助けてくれ」と繰り返していたかと思うと、「わかった。わかったから。出て行くから」と叫んだ。
「たがえるなよ」
師匠はそう口にしたかと思うと、針の結界を踏み越え、黒い影たちの手を掻い潜り、懐からハサミを取り出して瞬時に注連縄の一部を切った。
その切られた部分の端が垂れて地面についた瞬間、神主姿の霊たちの姿が掻き消えた。あれほど濃密だった気配も消滅した。そのとき、わっ、という耳鳴りが駆け抜けたような気がした。
「円が途切れれば、閉じられた世界は終わる。神域を失い、一度散り散りになった霊体が別のアルゴリズムで再び凝集し、現れるまでは時間がかかるだろう。出て行くなら今のうちだ」
うずくまって荒い息を吐いていた和雄が、師匠のその言葉を聞いて跳ね起きた。
そして言葉にならない喚き声を上げながら、広間から飛び出していった。
僕らはみんなそれを見ていることしかできなかった。ただ呆然と。悪夢から目覚めたばかりのように。その中で師匠だけが涼しい顔をして、「一件落着だな」と笑っている。
天井から糸で吊られ、そして一部が切られた注連縄と、針だらけの畳。その針が作り出す円に閉じ込められた人間たち。そんな異様な大広間の光景が目の前にはある。しかし、さっきまでそこに存在した異界は、同じ形をした少し奇妙なただの日常へと変貌していた。
そのすべてを操った張本人は、腹が空いたのか右手で胃のあたりを押さえながら、後ろ手をついて腰を抜かしたままの勘介さんを見つめている。なにか訴えたげな眼差しで。
◆
「あ、雪だ」
僕は窓の外を見ながらそう呟いた。
夕方から降り続く小雨はいつの間にか、雪に変わっていた。すでに時刻は夜の十二時近くになっている。
僕は改めて師匠にあてがわれた一階の一番高そうな部屋にお邪魔していた。そしてそれから二人でとりとめもない話をしながら酒を酌み交わしている。
とんでもない幕切れとなったこの事件も、一応の解決をみたことになった。この部屋はその褒美というわけだ。女将は何度も師匠に頭を下げた。本当にありがとうございます、と。和雄のことだけではない、様々な憑き物がとれたような表情だった。代を重ねてもこの地域のよそ者として扱われ、そのことに慣れてしまっていた自分に、今日決別したという顔だった。
最後に「これからも誇りを持ってここで暮らしていきます」とだけ言って、女将は部屋を出て行った。
勘介さんもやってきた。遅い夕食はあまり準備ができていなかったので、初日の昨日ほど豪勢とはいかなかったが、その後で酒を飲み始めた僕らに、何度も手の込んだ酒の肴を作ってきては黙って置いていった。不器用な彼なりの感謝と、あるいはお詫びの気持ちなのだろう。
楓は姿を見せなかった。俯いたまま大広間から逃げるように出て行ったきりだ。彼女が負った心の傷は想像するに難くない。それもいつかは時間が癒してくれるのだろうか。ただ、あの無垢な少女が幸せになって欲しいと、それだけを僕は願った。
一番最後に広子さんが僕らの部屋にやって来た。
バツの悪そうな顔をしてモジモジしている。
「和雄の女癖、知ってたんだろ」
師匠にそう言われて、救われたような顔をした。
「あんな街なかの喫茶店で、やましい関係の女と会ってるなんて、脇が甘すぎだっての。お坊ちゃんだね。どうせ知ってる人にはバレバレだったんだろ」
どうやら和雄の女癖の悪さは密かに有名だったらしい。少なくとも広子さんのような情報通の女性たちには。広子さんも楓にそのことを伝えようか迷っていたようだ。だけど、和雄もいつかは楓の良さに気づいて、心を入れ替えて真剣に付き合うようになるかも知れない。そう思うと、若いその芽を摘んでしまうのに気が引けてしまっていたのだそうだ。
「でもまさか、それがこんな騒動になるなんてね」
広子さんは、心なしかしゅんとショゲながらも、最後は顔のパーツを中央に寄せてニッコリ笑って見せた。
「絶対また来てね」
そうして手を振って部屋を出て行った。
こんな田舎、絶対出て行ってやる、と言っていたその口でそう言うのだ。案外ここの暮らしが好きなのかも知れない。
そして今回も、僕はほとんどなんの役にも立たなかった。助手とは、もっと事件に飛び込んでいって綻びが見えてくるまでかき回す役目ではないのか。なにからなにまで師匠がやってしまっている。
興信所のなけなしのバイト代では泊まれないような宿に二晩も宿泊して、なかば観光ばかりしていた気がする。申し訳ない気持ちだ。ましてこんなクリスマスなんかに、師匠と二人でなんて。
ハッとした。そうだ。今日は二十五日だった。忘れかけていた。
そう思って見ると、窓の外に降る雪にも、ジングルベルの響きが聞こえてくるような風情があるではないか。
「ホワイトクリスマスですね」
ぼそっとそう言ったが、師匠はお猪口を片手にほんのり赤い顔をしてカーテンを開け放した窓の外を見ながら、ふん、と鼻で笑った。
「クリスマスってのは、二十四日の日没から始まって二十五日の日没で終わるんだ。言わなかったか?」
そうだっただろうか。じゃあ今はもうクリスマスという特別な時間ではないということか。
なんだか妙な符合を感じた。今夜の暮れ六つで、現世(うつしよ)と幽世(かくりよ)の境界を越えたように、ちょうどその同じころ、クリスマスとそうでない時間との狭間を越えていたのか。
不思議な気持ちだった。
「そういえばあの時、カナヘビだって言ってましたよね」
女将の子どものころの体験談を聞いた後のことだ。あれは足があるかないかの違いだけで、蛇は別の生き物になるということを言いたかったのだろう。
「言ったっけなあ」
師匠はとろんとした目で窓の外に目をやっている。酔いも回り、気分が良さそうだった。
「言いましたよ」
僕も自分の言葉などに大した執着もなく、ただぼんやりとそう返して窓の外を見つめていた。
静かだった。田舎の夜だ。都会ではこうはいかないだろう。
ただ音もなく窓一面の深い闇の中に淡い雪だけが舞っている。
しんしんと。
しんしんと。
遠く、近く。ただ窓を向いた顔だけが冷たい。
僕らは窓辺のテーブルに座り、その名前のない夜の風景をいつまでも眺め続けていた。
◇◇◇
匂いの記憶というものは不思議なものだ。
すっかり忘れていた過去が、ふとした時に嗅いだ懐かしい匂いにいざなわれて、鮮やかに蘇ることがある。
僕はその人のいなくなった部屋で一人台所に立ち、爽やかな匂いを放つ石鹸をただ握っている。
すべてが輝いていたあのころの記憶が滔々と流れ、そして消えていった。手の届かない過去のどこかの引き出しの中に仕舞われていったのだろう。
蛇口からは水が流れ続けている。それが手の甲を滑るように流れ落ちていく。
追憶の残滓が僕の目頭をくすぐる。しかしそこから水は流れなかった。
『おまえ、強くなったな』
いつか、その人はそう言った。
病室のシーツがやけに白かった。
『もう目が見えないんだ。時計を、見てくれないか』
記憶の再生を、止めた。
強くなんかなっていないですよ。
そう答えたのだったか。
もう忘れてしまった。
蛇口を閉じる。水が出るまでは時間がかかるのに、止まるのは一瞬だ。
しばらく佇んだ後、僕はもう一度石鹸を握った。蛇口を捻り、石鹸を両手で挟み直す。水が流れ出てくるまでの間、僕は両手を擦り合わせる。その人がそうしていたように。
そのわずかな時間。
そっと横目でその光景を見つめていた僕には、祈りのように見えた。
この日本に限らず、世界中のあらゆる民族に雨乞いの風習があった。その作法は様々だ。しかしたった一つ共通していることがある。それは祈りだ。祈りがいつか大地に雨を降らせる。
その間、人は神と、あるいは自然そのものと一体となり、通うはずのない想いを通わせる。
雨乞いの風習があれば、そこには雨乞いを生業とする人々もいる。オカミを祀る神社の守り手たちのように。そうした雨乞い師のことを英語ではレインメーカーと言うそうだ。そしてその言葉には同時に、弁舌以外なにも持たずに大金を稼ぐ弁護士を指し示す、裏の意味もある。
僕は石鹸を擦る。
様々なペテンと、ほんの少しの隠された真実を操って短い生涯を駆けてきたその人のことを思いながら。
『雨乞いなんて、降りそうなときにするもんだ』
帰りの電車の中で窓に頬づえをつきながら、少し笑ってそう言った。その人らしい、と思った。
ささやかな壁に区切られた部屋の外を、車が通る音がする。カラカラと、穴のあいたようなマフラーの音を響かせて。
目を落とし、僕は石鹸を擦る。
祈るように。
爽やかな匂いが鼻腔に広がる。
やがて蛇口からは……
『レインメーカー』 完
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ウニさんのPixiv/師匠シリーズ「未」より転載させていただきました。
『師匠シリーズ』作者、ウニさんについて
[table “548” not found /]ウニさんの本 書籍 / コミック 作画:片山 愁さん
[table “549” not found /]