眼と耳で読む師匠シリーズ

【眼と耳で読む】風の行方【師匠シリーズ】

※ウニさんの作品はPixiv及び「怖い話まとめブログ」さまより、
Youtubeの動画は彼岸さんのUPされている136さんの朗読をお借りしています。
耳で捉えた物語を目で文章を追うことで、さらにイメージは大きく膨らんでいくのではないでしょうか。
 
 


 

[h2vr]
「風の行方」

 

師匠から聞いた話だ。
 

大学二回生の夏。風の強い日のことだった。
家にいる時から窓ガラスがしきりにガタガタと揺れていて、嵐にでもなるのかと何度も外を見たが、空は晴れていた。変な天気だな。そう思いながら過ごしていると、加奈子さんという大学の先輩に電話で呼び出された。
家の外に出たときも顔に強い風が吹き付けてきて、自転車に乗って街を走っている間中、ビュウビュウという音が耳をなぶった。
街を歩く女性たちのスカートがめくれそうになり、それをきゃあきゃあ言いながら両手で押さえている様子は眼福であったが、地面の上の埃だかなんだかが舞い上がり顔に吹き付けてくるのには閉口した。
うっぷ、と息が詰まる。
風向きも、あっちから吹いたり、こっちから吹いたりと、全く定まらない。台風でも近づいてきているのだろうか。しかし新聞では見た覚えがない。天気予報でもそんなことは言っていなかったように思うが……
そんなことを考えていると、いつの間にか目的の場所にたどり着いていた。
住宅街の中の小さな公園に古びたベンチが据えられていて、そこにツバの長いキャップを目深に被った女性が片膝を立てて腰掛けていた。
手にした文庫本を読んでいる。その広げたページが風に煽られて、舌打ちをしながら指で押さえている。
「お、来たな」
僕に気がついて加奈子さんは顔を上げた。Tシャツに、薄手のジャケット。そしてホットパンツという涼しげないでたちだった。
「じゃあ、行こうか」
薄い文庫本をホットパンツのお尻のポケットにねじ込んで立ち上がる。
彼女は僕のオカルト道の師匠だった。そして小川調査事務所という興信所で、『オバケ』専門の依頼を受けるバイトをしている。
今日はその依頼主の所へ行って話を聞いてくるのだという。
僕もその下請けの下請けのような仕事ばかりしている零細興信所の、アルバイト調査員である師匠の、さらにその下についた助手という、素晴らしい肩書きを持っている。あまり役に立った覚えはないが、それでもスズメの涙ほどのバイト代は貰っている。
具体的な額は聞いたことがないが、師匠の方は鷹だかフクロウだかの涙くらいは貰っているのだろうか。
「こっち」
地図を手書きで書き写したような半紙を手に住宅街を進み、ほどなく小洒落た名前のついた二階建てのアパートにたどり着いた。
一階のフロアの中ほどの部屋のドアをノックすると、中から俯き加減の女性がこわごわという様子で顔を覗かせる。
「どうもっ」
師匠の営業スマイルを見て、少しホッとしたような表情をしてチェーンロックを外す。そしておずおずと部屋の中に通された。
浮田さんという名前のその彼女は、市内の大学に通う学生だった。三回生ということなので、僕と師匠の中間の年齢か。
実は浮田さんは以前にも小川調査事務所を通して、不思議な落し物にまつわる事件のことを師匠に相談したことがあったそうで、その縁で今回も名指しで依頼があったらしい。
道理で気を抜いた格好をしているはずだ。
ただでさえ胡散臭い「自称霊能力者」のような真似事をしているのに、お金をもらってする仕事としての依頼に、いかにもバイトでやってますとでも言いたげなカジュアル過ぎる服装をしていくのは、相手の心象を損ねるものだ。少なくとも初対面であれば。
師匠はなにも考えてないようで、わりとそのあたりのTPOはわきまえている。
「で、今度はなにがあったんですか」
リビングの絨毯の上に置かれた丸テーブルを囲んで、浮田さんをうながす。
学生向きの1LDKだったが、家具が多いわりに部屋自体は良く片付けられていて、随分と広く感じた。師匠のボロアパートとは真逆の価値観に溢れた部屋だった。
「それが……」
浮田さんがポツポツと話したところをまとめると、こういうことのようだ。

彼女は三年前、大学入学と同時に演劇部に入部した。高校時代から、見るだけではなく自分で演じる芝居が好きで、地元の大学に入ったのも、演劇部があったからだった。
定期公演をしているような実績のあるサークルだったので部員の数も多く、一回生のころはなかなか役をもらえなかったが、くさらずに真面目に練習に通っていたおかげで二回生の夏ごろからわりと良い役どころをやらせてもらえるようになった。
三回生になった今年は、就職活動のために望まずとも半ば引退状態になってしまう秋を控え、言わば最後の挑戦の年だったのだが、下級生に実力のある子が増えたせいで、思うように主役級の役を張れない日々が続いていた。下級生だけのためではなく、本来引退しているはずの四回生の中にも、就職そっちのけで演劇に命を賭けている先輩が数人いたせいでもあった。都会でやっているような大手の劇団に誘われるような凄い人はいなかったのだが、バイトをしながらでもどこかの小劇団に所属して、まだまだ自分の可能性を見極めたい、という人たちだった。
真似はできないが、それはそれで羨ましい人生のように思えた。
そしてつい三週間前、文化ホールを借りて行った三日間にわたる演劇部の夏公演が終わった。
同級生の中には自分と同じように秋に向けてまだまだやる気の人もいたが、これで完全引退という人もいた。年々早くなっていく就職活動のために、三回生とってはこの夏公演が卒業公演という空気が生まれつつあった。
だが、彼女にとって一番の問題は、就職先も決まらないまま、まだズルズルと続けていた四回生の中の、ある一人の男の先輩のことだった。
普段からあまり目立たない人で、その夏公演でも脇役の一人に過ぎず、台詞も数えるくらいしかなかったのだが、卒業後は市内のある劇団に入団すると言って周囲を驚かせていた。誰も彼が演劇を続けるとは思っていなかったのだ。同時に、区切りとしてこれで演劇部からは引退する、とも。
その人が、夏公演の後で彼女に告白をしてきたのだ。
ずっと好きだったと。
なんとなくだが、普段の練習中からも粘りつくような視線を感じることがあり、それでいてそちらを向くと、つい、と目線を逸らす。そんなことがたびたびあった。いつも不快だった。気持ちが悪かった。その男が、今さら好きだったなんて言ってきても、返事は決まっていた。
はっきりと断られてショックを受けたようだったが、しばらく俯いていたかと思うと、蛇が鎌首をもたげるようにゆっくりと顔を上げ、ゾッとすることを言ったのだ。
『髪をください』
口の動きとともに、首が頷きを繰り返すように上下した。
『せめて、思い出に』
そう言うのだ。大げさではなく、震え上がった。
「いやですよ。髪は女の命ですから」
と、最初は冗談めかしてごまかそうとしたが、それで乗り切れそうな気がしないことに気づき、やがて叫ぶように言った。
「やめてください」
男は怯んだ様子も見せず、同じ言葉を繰り返した。そして『一本でもいいんです』と懇願するような仕草を見せた。
彼女は「本当にやめてください」と言い捨てて、その場を逃げるように去ったが、追いすがってはこなかった。
しかしホッとする間もなく、それから大学で会うたびに髪の毛を求められた。『髪をください』と、ねとつくような声で。
彼と同じ四回生の先輩に相談したが、男の先輩は「いいじゃないか、髪の毛の一本くらい」と言って、さもどうでもよさそうな様子で取り合ってくれず、女の先輩は「無駄無駄。あいつ、思い込んだらホントにしつこいから。まあでも髪くらいならマシじゃない? 変態的なキャラだけど、そこからエスカレートするような度胸もないし」と言った。
以前にも演劇部の女の同級生に言い寄ったことがあったらしいのだが、その時も相手にされず、それでもめげないでひたすらネチネチと言い寄り続けて、とうとうその同級生は退部してしまったのだそうだ。ただその際も、家にまで行くストーカーのような真似や乱暴な振る舞いに出るようなことはなかったらしい。
そんな話を複数の人から聞かされ、今回はその男の方が演劇部から引退するのだし、髪の毛だけで済むのならそれですべて終わりにしたい。そう思うようになった。
それで済むうちに……
そしてある夜、寝る前にテレビを消した時、その静けさにふいに心細さが込み上げてきて、「よし、明日髪の毛を渡そう」と決めたのだった。
しかし、いざハサミを手に持ってもう片方の手で髪の毛の一本を選んで掴み取ると、これからなにか大事なものを文字通り切り捨ててしまうような感覚に襲われた。
一方的な被害者の自分が、どうしてこんなことまでしなければならないのか。
そう思うと、ムカムカと怒りがこみ上げてきた。
そうだ。なにも自分の髪の毛でなくとも良いのだ。同じくらいの長さだったら、誰のだろうがどうせ分かりっこない。
そう思ったとき目に入ったのが、部屋の衣装箪笥の上に飾っていた日本人形だった。
子どものころに親に買ってもらったその人形は、今でもお気に入りで、この下宿先まで持ち込んでいたのだった。状態も良く、いつか自分が着ることを夢見た綺麗な着物を清楚にまとっていた。
そっとその髪に手を触れると、滑らかな感触が指の腹を撫でた。確か本物の人毛を一本一本植え込んでいると、親に聞かされたことがあった。
これなら……
そう思って、摘んだ指先に力を込めると一本の長い艶やかな髪の毛が抜けた。根元を見ると、さすがに毛根はついていなかったが、あの男も「抜いたものを欲しい」なんて言わなかったはずだ。
少し考えて、毛根のないその根元をハサミで少しカットした。これで生えていた毛を切ったものと同じになったし、長さも彼女のものより少し長めだったのでちょうど良い。黒の微妙な色合いも自分のものとほとんど同じように見えた。
それも当然だった。両親は彼女の髪の色艶と良く似た人形を選んで買ってくれたのだから。
次の日、男にその髪の毛を渡した。ハンカチに包んで。
「そのハンカチも差し上げますから、もう関わらないでください」と言うと、思いのほか素直に頷いて、ありがとう、と嬉しそうに笑った。
最後のその笑顔も、気持ちが悪かった。カエルか爬虫類を前にしているような気がした。袈裟まで憎い、という心理なのかも知れなかったが、もう後ろを振り返ることもなく足早にその場を去った。すべて忘れてしまいたかった。
それから数日が経ち、その男も全く彼女の周囲に現れなくなっていた。
本人の顔が目の前にないと現金なもので、たいした実害もなかったことだし、だんだんとそれほど悪い人ではなかったような気がしはじめていた。
そして、メインメンバーの一部が抜けた後の最初の公演である、秋公演のことを思うと、自然と気持ちが切り替わっていった。
そんなある日、夜にいつものように部屋でテレビを見ている時にそれは起こった。
バラエティ番組が終わり、十一時のニュースを眺めていると、ふいに部屋の中に物凄い音が響いた。
なにか、硬い家具が破壊されたような衝撃音。
心臓が飛び上がりそうになった。うろたえながらも部屋の中の異常を探そうと、息を飲んで周囲に目をやる。
箪笥や棚からなにか落ちたのだろうかと思ったが、それらしいものが床に落ちている痕跡はない。そしてなにより、そんなたかが二メートル程度の高さから物が落ちたような生易しい音ではなかった。
もっと暴力的な、ゾッとする破壊音。
それきり部屋はまた静かになり、テレビからニュースキャスターの声だけが漏れ出てくる。
得体の知れない恐怖に包まれながら、さっきの音の正体を探して部屋の中を見回していると、ついにそれが目に入った。
人形だ。箪笥の上の日本人形。艶やかな柄の着物を着て、長い黒髪をおかっぱに伸ばし、……
その瞬間、体中を針で刺されるような悪寒に襲われた。
悲鳴を上げた、と思う。人形は、顔がなかった。
いや、顔のあった場所は粉々にくだかれていて、原型をとどめていなかった。巨大なハンマーで力任せに打ちつけたような跡だった。まるで自分がそうされたような錯覚に陥って、ひたすら叫び続けた。

浮田さんは語り終え、自分の肩を両手で抱いた。見ているのが可哀そうなくらい震えている。
「髪か」
師匠がぽつりと言った。
ゾッとする話だ。もし、彼女が自分の髪を渡していたら…… そう思うと、ますます恐ろしくなってくる。
なぜ彼女がそんな目に遭わなくてはいけないのか。その理不尽さに僕は軽い混乱を覚えた。
その時、頭に浮かんだのは『丑の刻参り』だった。憎い相手の髪の毛を藁人形に埋め込んで、夜中に五寸釘で神社の神木に打ち付ける、呪いの儀式だ。藁人形を相手の身体に見立て、髪の毛という人体の一部を埋め込むことで、その人形と相手自身との間に空間を越えたつながりを持たせるという、類感呪術と感染呪術を融合させたジャパニーズ・トラディショナル・カース。
しかしその最初の一撃が、顔が原型を留めなくなるような、寒気のする一撃であったことに、異様なおぞましさを感じる。
「その後は?」
師匠にうながされ、浮田さんはゆっくりと口を開く。
「なにも」
その夜は、それ以上のことは起こらなかったそうだ。壊された人形はそのままにしておく気になれず、親しい女友だちに捨ててきてもらった。
怖くて一歩も家を出ることができなかったが、その友人を通してあの男が大学にも姿を現していないことを聞いた。
もしあいつが、渡したのが人形の髪の毛だったことに気づたら、と思うと気が狂いそうになった。もう私は死んだことにしたい、と思った。実際に、友人に対してそんなことを口走りもした。
私が死んだと伝え聞けば、あいつも満足してすべてが終わるんじゃないかと、そう思ったのだ。
喋りながら浮田さんは目に涙を浮かべていた。
「わたしにどうして欲しい?」
師匠は冷淡とも言える口調で問い掛ける。締め切った部屋には、クーラーの生み出す微かな気流だけが床を這っていた。
「助けて」
震える声が沈黙を破る。
師匠は「分かった」とだけ言った。

            ◆

僕と師匠はその足で、近所に住んでいた浮田さんの友人の家を訪ねた。頼まれて人形を捨てに行った女性だ。
彼女の話では、人形は本当に顔のあたりが砕けていて、巨大なハンマーで力任せに殴ったようにひしゃげていたのだそうだ。彼女はその人形を、彼氏の車で運んでもらって遠くの山に捨ててきたと言う。
「燃やさなかったのか?」
師匠は、燃やした方が良かったと言った。
友人は浮田さんと同じ演劇部で、以前合宿をした時に幹事をしたことがあり、その時に作った名簿をまだ持っていた。男の名前もその中にあり、住所まで載っていた。
「曽我タケヒロか」
師匠はその住所をメモして友人の家を出た。
曽我の住んでいるアパートは市内の外れにあり、僕は師匠を自転車の後ろに乗せてすぐにそこへ向かった。
アパートはすぐに分かり、表札のないドアをノックしていると、隣の部屋から無精ひげを生やした男が出てきて、こう言った。
「引っ越したよ」
「いつですか」
ぼりぼりと顎を掻きながら「四、五日前」と答える。ここに住んでいたのが、曽我という学生だったことを確認して、引越し先を知りたいから大家はどこにいるのかと重ねて訊いた。すると、その隣人は「なんか、当日に急に引っ越すからって連絡があって、敷金のこともあるのに引越し先も言わないで消えた、って大家がぶつぶつ言ってたよ」と教えてくれた。
四、五日前か。ちょうど人形の事件があったころだ。その符合に嫌な予感がし始めた。
礼を言ってそのアパートから出た後、今度はその足で市内のハンコ屋に行った。以前師匠のお遣いに行かされた店だった。
師匠は店内にズラリとあった三文判の中から『曽我』の判子を選んで買った。安かったが、領収書をしっかりともらっていた。宛名が「上様」だったことから、これからすることがなんとなく想像できた。
ハンコ屋を出ると、案の定次の目的地は市役所だった。
師匠は玄関から市民課の窓口を盗み見て、僕に「住民票の申請書を一枚とってこい」と言った。
言うとおりにすると、今度は建物の陰で僕にボールペンを突きつけ、その申請書の「委任状」の欄を書かせた。もちろん委任者は「曽我タケヒロ」だ。そして買ったばかりの判子をついて、「ここで待ってろ」と市民化の窓口へ歩いて行った。
そのいかにも物慣れた様子に、興信所の調査員らしさを感じて感心していた。なにより、ポケットから携帯式の朱肉が出てきたことが一番の驚きだった。前にも持っているところを見たことがあったが、こんなこともあろうかと、いつも持ち歩いているらしい。
どっぷり浸かっているな、この世界に。
しかしそれさえ、彼女の持つバイタリティの一面に過ぎないということも感じていた。
しばらく待っていると、浮かない顔をして戻ってきた。「どうでしたか」と訊くと「駄目だ。こっちに住民票自体移してなかった。蒸発の仕方から、転出届けは出してない可能性が高かったから、住んでたアパートの住民票さえ取れれば、戸籍と前住所が分かって、色々やりようがあったんだけど」
師匠はそう言いながら市役所の外へ歩き出す。
「大家をつかまえて、アパートに越してくる前の住所を訊き出しますか」
「いや、難しいだろう。住民票を市内に移してないということは、遠方の実家に住所を置いたままだった可能性が高い。カンだけど、曽我はまだこの街にいる気がする。だから実家を探し出してもやつの足取りをたどれるかどうかは怪しいな。ま、逆に実家に帰ってるんだったら、実害はなさそうだ。とりあえず今すべきことは、最悪の事態を想定して、迅速に動くことだな」
となると、やっぱり大学と演劇部の連中に訊き込みをするしかないか。
師匠は忌々しそうに呟いた。
もし曽我がまだその近辺にいるのなら、それではこちらの動きも筒抜けになってしまう可能性があった。
「どうすっかなあ」
師匠は大げさに頭を両手で掻きながら歩く。
クーラーの効いていた市役所の中から出ると、熱気が全身に覆いかぶさってきて、息が詰まるようだった。そして太陽光線が容赦なく肌を刺す。
しかし、しばらく歩いていると、強い風が吹き付けてきてその熱気が少し散らされた。相変わらず風が強い。朝からずっと吹き回っている。
「昨日からだよ」
と師匠は言った。風は昨日から吹いているらしい。そう言えば昨日はほとんど寝て過ごしたので覚えていないが、そうだったかも知れない。
「そう言えば昨日、友だちが髪の毛の話をしてましたよ」
僕には、男のくせにやたらと髪の毛を伸ばしている友人がいた。高校時代からずっと伸ばしているというその髪は腰に届くほどもあって、周囲の女性からは気持ち悪がられていた。本人は女性以上に髪には気を使っているのだが、長いというだけで不潔そうに見えるのだろう。だが大学にはそういう髪の長い男は結構多かった。いわゆるオタクのファッションの一類型だったのだろう。
その友人が昨日、自分の部屋にガールフレンドを呼んだのだが、あるものを見つけられて詰め寄られたのだという。
どうせ他のオンナを部屋に上げていた痕跡を見つけられたという、痴話喧嘩の話だろうと思ってその電話を聞いていると、案の定「髪の毛が部屋に落ちてるのを見つけられたんだ」と言う。
ふうん、と面白くもなく相槌を打っていると彼は続けた。
「それで詰め寄られたんだ。この短い髪の毛、誰のよ? って」
少し噴いた。なるほど、そういうオチか。彼女も髪が長いのだろう。
市役所の前の通りを歩きながらそんな話をすると、師匠はさほど面白くもなさそうに「面白いな」と言って、心ここにあらずといった様子でまだ悩んでいた。
僕は溜め息をついて、歩きながら自転車のハンドルを握り直す。またじわじわと熱さが増してきた。早く自転車にまたがってスピードを出したかった。
そう思っていると、また風が吹いてきてその風圧を仮想体験させてくれた。
「うっ」
いきなり顔になにがか絡み付いてきた。虫とか、何だか分からないものが顔にあたったときは、口に入ったわけではなくても一瞬息が詰まる。そのときもそんな感じだった。
なんだ。
顔に張り付いたものを指で摘んだ瞬間、得体の知れない嫌悪感に襲われた。
髪の毛だった。
誰の? とっさに隣の師匠の横顔を見たが、長さが違う。そしてそのとき風は師匠の方からではなく、全然違う方向から吹いていた。
髪の毛。
髪の毛だ。髪の毛が風に乗って流されてきた。
立ち止まった僕を、師匠が怪訝そうに振り返る。そして僕の手に握られたそれを見ると、見る見る表情が険しくなる。
「よこせ」
僕の手から奪いとった髪の毛に顔を近づけて凝視する。それからゆっくりと顔を上げ、水平に首を回して周囲の景色を眺めた。
風がまた強くなった。
心臓がドクドクと鳴る。偶然だろう。偶然。
そのとき、近くを歩いていた女子高生たちが悲鳴を上げた。
「やだぁ。なにこれぇ」
その中の一人が、顔に吹き付けた風に悪態をついている。いや、風に、ではない。その指にはなにかが摘まれている。
「なにこれ。髪の毛?」
「気持ち悪ぅい」
口々にそんなことを言いながら女子高生たちは通り過ぎていった。
髪。
偶然…… ではないのか。
師匠はいきなり自分の服の表面をまさぐり始めた。猿が毛づくろいをしているような格好だ。ホットパンツから飛び出している足が妙に艶かしかった。しかしすぐにその動きは止まり、腰のあたりについていたなにかを慎重に摘み上げる。
そして僕を見た。その指には茶色の髪の毛が掴まれている。
反対の手の指にはさっき僕の顔に張り付いた髪の毛。色は黒だ。
長さが違う。色も。どちらも師匠とも、僕の髪の毛とも明らかに違っていた。
「お前、その友だちの話」
「え」
「短い髪の毛誰のよ、って怒られた友だちだよ」
「はい」
「本当に浮気をしていたのか」
その言葉にハッとした。浮気なんかしていないはずだ。今の彼女を見つけただけでも奇跡のような男だったから。
その部屋に、彼女のでも、自分のでもない短い髪の毛。
普通に考えれば誰か他の、男の友人が遊びにきて落としたのだろうと思うところだ。しかし、そう連想せずにいきなり詰め寄られたということは、なにか理由があるはずだ。
例えば、前の日に二人で部屋の掃除をしたばかりで、友人は誰も訪ねては来ていないはずだったとか。
だったらその髪の毛は、どこから?
僕は思わず自分の服を見た。隅から隅まで。そして服の表面に絡みついた髪の毛を見つけてしまった。それも三本も。
ぞわぞわと皮膚が泡立つ。
どれも同じ人間の髪の毛とは思えなかった。よく観察すると長さや太さ、色合いがすべて違う。こうして、友人の服についた誰かの髪の毛が、部屋の中に落ちたのか。
そう言えば、今日自分の部屋を出たときから顔になにかほこりのようなものが当たって息が詰まることが何度かあった。あれはもしかして髪の毛だったのかも知れない。すべて。
空は晴れ渡っていて、ぽつぽつと浮かんだ雲はどれもまったく動いていないように見えた。上空は風がないのだろうか。
師匠は歩道の真ん中で風を見ようとするように首を突き出して目を見開いた。
そしてしばらくそのままの格好でいたかと思うと、前を見たまま口を開く。
「髪が、混ざっているぞ」
風の中に。
そう言って、なんとも言えない笑みを浮かべた。
「小物だと思ったけど、これは凄いな。いったいどういうことだ」
師匠のその言葉を聞いて、そこに含まれた意味にショックを受ける。
「これが、人の仕業だって言うんですか」
街の中に吹く風に、髪の毛が混ざっているのが、誰かの仕業だと。
僕は頬に吹き付ける風に嫌悪感を覚えて後ずさったが、風は逃げ場なくどこからも吹いていた。その目に見えない空気の流れに乗って、無数の誰かの髪の毛が宙を舞っていることを想像し、吐き気をもよおす。
「床屋の…… ゴミ箱が風で倒れて、そのままゴミ袋いっぱいの髪の毛が風に飛ばされたんじゃないないですか」
無理に軽口を叩いたが、師匠は首を振る。
「見ろ」
摘んだままの髪の毛を二本とも僕につきつける。よく見ると、どちらにも毛根がついていた。慌てて自分の身体についていたさっきの髪の毛も確認するが、そのすべてに毛根がついている。
ハサミで切られたものではなく、明らかに抜けた毛だ。
確かに通行人の髪の毛が自然に抜け落ちることはあるだろう。それが風に流されてくることも。だが、問題なのはその頻度だった。
師匠が、近くにあった喫茶店の看板に近づいて指をさす。そこには何本かの髪の毛が張り付いて、吹き付ける風に小刻みに揺れていた。
「行くぞ」
師匠が僕の自転車の後ろに勢いよく飛び乗った。僕はすぐにこぎ出す。
それから二人で、街なかをひたすら観察して回った。だが、その行く先々で風は吹き、その風の中には髪の毛が混ざっていた。
僕は自転車をこぎながら、混乱していた。今起こっていることが信じられなかった。現実感がない。いつの間にか別の世界に足を踏み入れたようだった。風は広範囲で無軌道に吹き荒れ、市内の中心部のいたるところで髪の毛が一緒に流されているのを確認した。
目の前で風に煽られ、髪の毛を手で押さえる女性を見て、師匠は言った。
「この髪の毛、どこからともなく飛んできてるわけじゃないな」
通行人の髪が強風に撫でられ、そして抜け落ちた髪がそのまま風に捕らわれているのだ。
師匠は被っていたキャップの中に自分の髪の毛を押し込み、僕には近くの古着屋で季節外れのニット帽を買ってくれた。もちろん領収書をもらっていたが。
師匠に頭からすっぽりとニット帽を被せられ、「暑いです」と文句を垂れると「もう遅いかも知れんがな、顔面を砕かれたくなかったら我慢しろ」と言われた。
顔面を?
まるであの人形だ。ゾクゾクしながらされるがままになる。
「よし」と僕の頭のてっぺんを叩くと、師匠は顔を引き締めた。
「追うぞ」
「え?」と訊き返すと、「決まってるだろ、髪を、集めてるヤツだ」
何を言っているんだ。
呆れたように師匠の顔を見ながら、それでも僕は自分の心の奥底では彼女がそう言い出すのを待っていたことに気がついていた。
「曽我ですか」
「タイミングが合いすぎている。わたしの勘でも、これは偶然じゃない」
想い人である浮田さんの髪を手に入れ損ねた男が、騙されたことに怒り狂い、無差別に人の髪の毛をかき集めている、そんな狂気の姿が頭に浮かんだ。浮田さんは家に閉じこもっていて正解だったのだろう。
しかし、丑の刻参りだけならまだしも、こんなありえない凄まじい現象を、ただの大学生が起こしているというのか。
「いや、分からん。曽我は浮田の髪の毛を手に入れたが、それが誰か他のやつの手に渡った可能性はある」
「他のやつって?」
「……」
師匠は少し考えるそぶりを見せて、慎重な口調で答えた。
「どうもこのあいだから、こんなことが多い気がする」
このあいだって。
口の中でその言葉を反芻し、自分でも思い当たる。師匠が少し前に体験したという、街中を巻き込んだ異変のことだ。僕も妙な事件が続くなあ、と思ってはいたがその真相にたどり着こうなどとは考えつかなかった。その後も師匠にはそのことでしつこく詰られていた。
こういう大規模な怪現象が立て続くことに、師匠なりの警戒感を覚えているらしい。その怪現象のベールの向こうに、なにか恐ろしいものの影を感じ取っているかのようだった。
「どうやって追うんです」
少し上ずりながら僕がそう問うと、師匠は自分の人差し指をひと舐めし、唾のついたその指先を風に晒した。風向きを知るためにする動作だ。
「風を追う」
風が人々の髪の毛を巻き込みながら、街中を駆け回り、そしてその行き着く先がどこかにあると言っているのだ。
「でもこんなにバラバラに吹いてるのに」
「バラバラじゃない。確かに東西南北、どの方角からも風が吹いている。でも一つの場所では必ず同じ向きに風が吹いている」
師匠のその言葉に、思わず「あっ」と驚かされた。言われてみると確かにそうだったかも知れない。
「迷路みたいに入り組んでいても、目に見えない風の道があるんだ」
そうじゃなきゃ、髪を集められない。
そう言って師匠は僕の自転車の後輪に足を乗せ、行き先を示した。つまり、風が向かう方向だ。
ゾクゾクと背筋になにかが走った。恐怖ではない。感心でもない。畏敬という言葉が近いのか。この人は、こんなわけのわからない出来事の根源に、たどり着いてしまうのだろうか。
力強く肩を掴まれ、「さあ行け」という言葉が僕の背中を叩いた。

それから僕らは、師匠の感じ取る風の向かう先を追い続けた。
それは本当の意味で、目に見えない迷路だった。「あっち」「こっち」と師匠が指さす先にひたすら自転車のハンドルを向け続けたが、駅前の大通りを通ったかと思うと、急に繁華街を外れて住宅街の中をぐるぐると回り続けたり、かと思うと川沿いの緑道を抜け、国道に入って延々と直進したりと、法則もなにもなく、その先に終わりがあるのかまったく見えなかった。
そしてまた風に導かれるままに繁華街に戻ってきて、いい加減息が上がってきた僕が休憩しましょうと進言しようとしたとき、師匠が短く「止まれ」と言った。
そして後輪から降り、一人で歩き出した。
大通りからは一本裏に入った、レンガ舗装された商店街の一角だった。師匠の背中を目で追うと、その肩越しに二人の人間の姿があった。
女性だ。二人ともセーラー服を着ている。腕時計を見ると、いつの間にか高校生の下校の時間を過ぎていた。
二人は並んで立ち止まったまま、師匠をじっと見ている。二人ともかなり背が高く、目立つ風貌をしていた。
師匠が「よう」と気安げに声をかけると、髪の長い方が口を開いた。
「どうも」
少しとまどっているような様子だった。それにまったく頓着せず、師匠は親しげに語りかける。
「あの夜以来か。いや、一度会ったかな。元気か?」
「ええまあ」
短く返して、困ったような顔をする。
僕もそちらに近づいていった。
「この道にいるってことは、おまえも気づいたんだな」
師匠の言葉にその子はハッとした表情を見せた。
「危ないから、子どもは家で勉強してな」
やんわりと諭すような言葉だったが、見るからに気の強そうな目つきをしているその女子高生が反発せずに聞き入れるとは思えなかった。
そしてその子が口を開きかけたとき、
「どなた」
と、じっと聞いていた髪の短い方の子が、一歩前に出た。それは一瞬、髪の長い方を庇う様な姿に映った。薄っすらと笑みを浮かべた目が値踏みするように師匠に向けられる。
師匠がなにか言おうとして、ふと口を閉ざした。そしてなにかに気づいたような顔をしたかと思うと、すぐに笑い出した。
そのとき、強い風が吹いて全員の髪の毛をなぶった。髪の短い方が、その髪を手で押さえながら、不快げに眉間を寄せる。
「おいおい、あのときの覗き魔かよ。憑りつかれてるのか思ったのに、仲良しこよしじゃないか!」
一人で笑っている師匠に、女の子たちの空気が凍りついた。
「なにを言っているの」
髪の短い方が冷淡に言い放つ。
「なにって、しらばっくれるなよ。ひっかいてやったろ」
指先を曲げて猫のような仕草を見せる師匠の言葉に、彼女は怪訝な顔をする。師匠もすぐに彼女の顔を凝視して、おや、という表情をした。
「おい。あんなつながり方しといて、無事で済むわけないだろ。目はなんともないのか」
言われた方は自分の目をそっと触った。細く長い指だった。
「なにを言ってるのかわからない」
「ノセボ効果を回避したのか? それともおまえ……」
髪の長い方は連れと師匠との言い合いに戸惑った様子で、口を挟めないようだった。
「おまえ、過去を見てたのか」
師匠の目が細められる。
異様な気配がその場に立ち込め始めたような錯覚があった。
「だったら悪かったな。初対面だ。どうぞよろしく」
からかうように師匠が頭をぴょこんと下げる。
髪の短い方が冷ややかな目つきでその様子をねめつける。
「もう行きましょう」
ただならない雰囲気に気おされて僕は師匠のジャケットを引っ張った。
「まあいいや。とにかくもう家に帰れ。分かったな、子猫ちゃんたち」
バイバイ、と手を振って師匠はようやくセーラー服の二人から離れた。
遠ざかっていく二人を振り返り、僕は師匠に訊いた。
「あの子たちは誰なんですか」
「さあ。名前も知らない。ただ、追いかけているらしい。同じヤツを」
髪の毛が風に流されていく先をか。こんなバカな真似をしているのは僕と師匠だけだと思ったのに。
「あんのガキ」
急に師匠がTシャツの裾をこすり始めた。その裾が妙に汚れていて、こするたびにその汚れが薄く広がっていくように見えた。赤い染み。まるで血のように見えた。
「なんです、それ」
「イタズラだよ」
ガキのくせに。
師匠はそう呟いて、シャツの裾をくるくると巻いてわき腹でくくり、僕の肩に手を置いた。「さあ急ぐぞ。日が暮れる」
そう急かされたが、僕には師匠のへそのあたりが気になって仕方がなかった。
その後、さっきの二人が追いかけてくる様子もなく、また街なかをくるくると自転車で回り続けた。確かに同じ場所は通らなかったが、風の道が本当に一本なのか不安になってきた。
道がどこかでつながっていたとしたら、尻尾を飲み込んだウロボロスの蛇のように堂々巡りを繰り返すだけだ。
そして、あるビルの真下にやってきたとき、師匠は忌々しげに「くそっ」と掃き捨てた。
ビルを見上げると、十階建てほどの威容がそそり立っている。風は垂直に昇っていた。ビルの壁に沿って真上に。
これでは先に進めない。
ひたすらペダルをこぎ続けた疲れがドッと出て、僕は深く息を吐いた。目を凝らしても壁に沿って上昇した後の風の流れは見えなかった。
しかし師匠は「ちょっと、待ってろ」と言って近くのおもちゃ屋に飛び込んで行った。
そして出てきたときには手に風船のついた紐を持っていた。ふわふわと風船は浮かんでいる。ヘリウムが入っているのだろう。
「見てろよ」
師匠は一際大きく吹いた風に合わせて、紐を離した。
風船はあっと言う間に風に乗って上昇し、ビルの壁に沿って走った。そして五階の窓のあたりで大きく右に曲がり、そのままビルの壁面を抜けた。壁の向こう側へ回りこんだようだ。
僕と師匠はそれを見上げながら走って追いかけ、風船の行く先を見逃すまいと息を飲んだ。
だが、風船はビルの壁の端を回りこんだあたりで、風のチューブに吸い込まれるような鋭い動きを止め、あとはふわふわと自分自身の軽さに身を任せたかのようにゆっくりと空に上昇していった。
「しまった」
師匠はくやしそうに指を鳴らす。
そうか。風が上昇するときは、風船もその空気の流れに沿って上昇していくが、下降を始めたら、風船はその軽さから下向きの空気の流れに抗い、一瞬は風とともに下降してもやがてその流れから外れて、勝手に上昇していってしまうのだ。恐らくは何度やっても同じことだろう。
飛んで行く風船を見上げながら、僕たちはその場に立ち尽くしていた。これで道を指し示すものがなくなった。
気がつくとあたりは日が落ちかけ、薄暗くなっていた。
「どうしますか」
焦りを抑えて僕がそう問い掛けると、師匠は難しい顔をした。
もう、零細興信所に持ち込まれた小さな依頼どころの話ではなかった。ありえないと思いつつも、起こりうる最悪の事態をあえて想定した時、この街に訪れるかも知れない最悪の未来は、凄惨なものだった。
想像してしまって、自分の顔を手のひらで覆う。
風の行き着く場所で大きな口をあけて、そのすべてを飲み込もうとしている怪物。その怪物が自らの口に飛び込んできた無数の人々の髪の毛を集めて、なにかをしようとしている。
ガーンッ……
金属性のハンマーの音が頭の中に走った。思わず顔を上げ、幻聴であったことを確かめる。
うそだろ。そんなことが現実に起こるのか。うそだろう。
助けを求めるように師匠の方を見たが、いつになく蒼白い顔をしていた。
「ガスか」
「え」
「着色したガス。それを流せば風の道が見える」
それだ。その思いつきに興奮して、師匠の手を取った。
「それですよ。いけます、それ」
しかし師匠は浮かない顔だった。
確かに着色ガスなどどこで手に入れたらいいのかとっさには分からない。しかし知り合いに片っ端から訊くとか、あるいは街なかのミリタリーショップにでも行けばあっさりと売っているかも知れない。もしくは駄菓子屋で売っていたような煙玉でもいい。
少なくともここでビルを見上げているよりはマシだ。
しかし師匠は首を振る。そして自分の腕時計を指し示す。
「時間がない」
「なぜです」
「もう日が暮れる。なにかあるとしたら夜だ。確かに昨日から風は吹いていたけど、明らかに今日になってから強くなった。今夜、それが起こるかも知れない。ここまでに掛かった時間を考えてみろ。わたしたちはスタートがどこかも知らないんだ。この先、どこまでこの風の道が続くのかも」
僕は口ごもった。
しかし腹の底から湧いてくる焦燥が、考えも無く口を開かせる。
「だったらどうするんですか」
我ながら子どもがだだをこねるような口ぶりに、師匠は「なんとかするさ」と口角を上げた。
どれほど追い詰められても、この人はそのたびに常識を超えた解答を導き出す。正答、正しい答えではない、ただ複雑に絡まりあった事象を一刀で断ち切るような、解答をだ。
そんなとき、彼女の周囲には夥しい死と生の気配が、禍々しく、震えるように立ち込め、僕はそれにえもいわれない恍惚を覚える。
「行くぞ」
どこへ、ではなく、はい、と僕は言った。

            ◆

ビルの屋上は風が強かった。
いつもそうなのか、それとも今日という日だからなのか、それは分からなかった。時間は夜の十二時を少し回ったころ。
展望台として開放されているわけではない。ただこっそり忍び込んだのだ。高い場所から見下ろす夜景は、なかなかに壮観だった。周辺で一番高いビルだから、その周囲の小さなビルの群れが月光に照らされている姿がよく見えた。そしてその下のぽつぽつと夜の海に浮かぶ小船のような明かりも。
師匠は転落防止のフェンスを乗り越えて、切り立った崖のような屋上の縁に腰をかけ、足を壁面に垂らしてぶらぶらと揺らしていた。
片方の手ですぐそばのフェンスを掴んではいるが、強風の中、実に危なっかしい。
僕は真似ができずに、フェンスのこちら側で師匠のそばに座り、その横顔をそっと窺っていた。
「…………」
持ち込んだ携帯型のラジオからニュースが流れている。
「続報、やらないなあ」
師匠が呟く。
さっき聴いたローカルニュースには僕も驚いた。
市内の中心街で、夕方に毒ガス騒ぎがあったというのだ。黄色いガスがビルの回りに立ち込めて、周囲は騒然としたそうだ。
すぐにそのガスはただの着色された無害なガスと分かり、厳戒態勢は解かれることになったのだが、こんな平和な街でそんな事件が起こること自体が異常なことだった。
犯人はまだ分かっていない。しかしその誰かは、師匠と同じことを考えたのに違いないだろう。騒動のあった場所は僕らが行き詰ったビルの前とは離れていた。しかしそんなトラップのような場所が一ヶ所とは限らない。僕らよりもかなり手前にいたのか、あるいはずっと先行していたのかも知れない。
「だれでしょうね」
そう問うと、師匠は「さあ、なあ」と言ってラジオの周波数を変えた。「あの子たちじゃない気がするな。まあ、この街にもこういう異変に気づくやつらが何人かはいるってことだろう」
そのガスをつかった誰かは、風の行き着く先にたどり着けたのだろうか。それとも出口のないウロボロスの蛇の輪に囚われてしまっただろうか。
僕は今日一日、西へ東へと駆けずり回った街を感慨深く眺める。この高さから夜の底を見下ろすと、地上のすべては箱庭のように見えた。現実感がない。
さっきまであそこで這いずり回っていたのに。急に得た神の視点に、頭のどこかが戸惑っているのかも知れない。
「で、このあと、どうなるんです」
なにも解決などしていなかった。それでもここでただこうしているだけだ。もう僕はすべてを師匠に委ねていた。

あの後、僕らはビルを離れ、師匠の秘密基地へ向かった。ドブ川のそばに立っている格安の賃貸ガレージだ。部屋の中に置けない怪しげな収集物はそこに隠しているらしい。
シャッターを上げると、かび臭い匂いが鼻をついた。そして、感じられる人には感じられる、凄まじい威圧感がその中から滲み出していた。
その空気の中へ、どれで行くかな、などと鼻歌でも歌う調子で足を踏み入れた師匠はしばらくゴソゴソとやっていたかと思うと、一つの箱を持ってガレージの外に出てきた。
やっぱりこれだな。
そしてなにごとか呟いて、箱に施されていた細い縄の封印を解いた。呟いたのは、短い呪い言葉のようだった。
箱の中から現れたのは仮面だった。鬼のような顔をした古そうな仮面だったが、どこかのっぺりとしていた。
だがそのときの僕は、もっととてつもないものが現れたのだと思った。恐ろしさや、忌々しさ、無力感や、憤怒、そして嘆き。そうしたものが凝縮されたもの。
なにか、災害のようなものが現れたのだと。
身体が硬直して動けない僕を尻目に、師匠はその仮面の頭部に手をやり、そこに生えていた毛を一本毟り取った。
そう。その仮面には髪の毛が生えていた。いや、髪の毛というより、その部分の皮膚が仮面に張り付いて、剥がすときに肉ごとこそげ落ちてしまったかのようだった。髪は仮面の裏側にこびり付いた赤黒い肉から生えていた。
これでいい。
師匠はそう言ってまた仮面を箱に戻し、引き抜いた髪の毛だけをハンカチに包んで、行こう、と言った。
それから師匠はまた市街地に戻り、強い風が吹いている場所に立ってニヤリと笑ってみせた。
日は落ちて、街には人工の明かりが順々に灯っていた。
目深に被ったキャップの下の目が妖しく輝いている。
どうすると思う?
もう分かった。師匠がなにをするつもりなのか。
こうするんだ。
そう言ったかと思うと、ハンカチから出したさっきの髪の毛をそっと指から離した。それは風に乗り、あっと言う間に見えなくなってしまった。風の唸る音が、耳にいつまでも残っているような気がした。

「あの仮面は、なんだったんです」
風の舞う深夜のビルの屋上でフェンスを挟んで座り、僕はぽつりと漏らした。聞けばゾッとさせられるのは間違いないだろう。しかし聞かずにもいられなかった。
「あの面か」
むき出しの足を屋上からはみ出させ、前後にぶらぶらと揺らしながら師匠は教えてくれた。
「金春(こんぱる)流を知ってるか」
曰く、能の流派の一つで、主に桃山時代に豊臣秀吉の庇護を受けて全盛期を迎え、一時代を築いた家なのだという。
現代でも続くその金春流は、伝承によると聖徳太子のブレーンでもあった渡来人の秦氏の一人が伝えたものだと言われ、非常に古い歴史を持っている。
その聖徳太子が神通力をもって天より降ろし、金春流に授けたのが「天之面」と呼ばれる面だ。その後、その面は金春家の守護神として代々大切に祀られ、箱に納めた上に注連縄を張り、金春家の土蔵に秘されていたという。
天之面は恐ろしい力を持ち、様々な天変地異を起こしたと伝えられている。人々はその力を畏怖し、厳重に祀り、「太夫といえども見てはならぬ」と言われたほどであった。
享保年間の『金春太夫書状』によれば、「世間にておそろし殿と申す面也」とされている。
また、「能に掛け申す面にては御座(イ)無く候」とも記されているとおり、能の大家の守護神たる面にもかかわらず、能を演じるときに被られることはなく、ただ秘伝である『翁』の技を伝授された太夫のみが一代に一度のみ見ることを許されたという。
それは「鬼神」の面とも、「翁」の面とも言われているが、正体は謎のままである。時代の下った現代では大和竹田の面塚に納められているとも言われるが、その所在は判然としていない。
その「おそろし殿」と呼び畏れられた面が。「太夫といえども見てはならぬ」と称された面が……
「ちょっと、まってください」
ようやく口を差し挟んだ。
師匠は僕の目を見つめ返す。
「あの面には、その、肉が。ついていました」
能を演じる際に掛ける面ではない、と言われているのに、あきらかに誰かが被った痕跡があった。いや、それ以前に、それほど古い面ならば、人間の肉など風化して崩れ落ちていてしかるべきではないか。
「ニンゲンの肉ならな」
師匠は口元に小さく笑みを浮かべる。
いや、そもそも、どうしてそんな面を師匠が持っているのだ。
「話せば長くなるんだが。まあ簡単に言うと、ある人からもらったんだ」
「誰です」
「知らないほうがいいな」
そっけない口調で、つい、と視線を逸らされた。
なんだか恐ろしい。
恐ろしかった。
その面はただごとではない。自分自身がそれを見た瞬間に「災害のようなもの」と直感したことを思い出した。そして次に、師匠がその面の裏に張り付いた肉から抜き取った髪の毛を、風の中に解き放ったときの光景が脳裏に蘇る。そのときの、風の唸り声も。
ゾクゾクと寒気のする想像が頭の中を駆け巡る。
髪の毛は風に乗って宙を舞い、街中を飛び続ける。まるで巨大ななにかが深く吸う息に、手繰り寄せられるように。
やがて髪の毛は誰かの手元にたどり着く。そして人間を模したヒトガタの奥深くに埋められる。それを害することで、その髪の持ち主を害しようとする、昏い意思が漏れ出す。
そして……
二十分か、三十分か。沈黙のうちに時間が経った。
深夜ラジオの音と、轟々という風の音だけが響く高層ビルの屋上で、僕はふいにその叫びを聞いた。

h ―――――――――………………

声にならない声が、夜景の中に充満して、そして弾けた。断末魔の叫びのようだった。
その余韻が消え去ったころ、恐る恐る街を見下ろすと、遥か地上ではなにごともなかったかのように車のヘッドライトが、連なる糸となって流れていた。
きっとあの叫び声が、悲鳴が、聞こえたのはこの街でもごくひと握りの人間たちだろう。その人間たちは昼間の太陽の下よりも、暗い夜の中にこそ棲む生き物なのだ。
自分と、師匠のように。
「結局、曽我ナントカだったのか、別の誰かだったのか分からなかったな。黒魔術だか、陰陽道だか、呪禁道だか知らないが、たいしたやつだよ」
その夜の側から、師匠が言葉を紡ぐ。
「だけど」
相手が悪かったな。なにしろ国宝級に祟り神すぎるやつだ。
ひそひそと、誰に聞かせるでもなく囁く。
僕はその横顔を金網越しに見つめていた。落ちたら助からない高さに腰をかけ、足をぶら下げているその人を。
その左目の下あたりからは、いつの間にかぽろぽろと光の雫がこぼれている。そしてその雫は高いビルの屋上から、海のような暗い夜の底へと音もなくゆっくりと沈んでいく。
この世のものとは思えない幻想的な美しさだった。
われ知らず、僕はその光景に重ね合わせていた。見たこともないはずの、鷹の涙を。あるいは、夜行性の鳥類の涙…… 例えば、フクロウの流すそれを。

気がつくと、風はもう止んでいた。
 
(完)

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ウニさんのPixiv/師匠シリーズ「風の行方」より転載させていただきました。

 
 

『師匠シリーズ』作者、ウニさんについて

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ウニさんの本 書籍 / コミック 作画:片山 愁さん

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